研究者としての物を追究する姿勢、何にでも興味を持って1つの事を発展させて考えてみる慣例から、紫苑さんは自分の心に留まったあの青年の事について、思い付くままにあれこれと想像し、その思考を深めて行きました。
『教え子の中にあんな感じの子がいたかなぁ?』
元某大学の教授をしていた紫苑さんは、自分の教え子の中に彼に似た感じの学生がいたかどうかと自身の記憶を探ってみるのでした。不思議な事に、彼には誰一人としてあの青年に似た感じの教え子が浮かんで来ないのでした。
『…不思議だなぁ』
紫苑さん位の年になると、新しく出会った人物は自分が過去に出会った人物の誰かに似通っていると思い当たり、大抵はその人の顔やその人に纏わる記憶が脳裏に甦って来る物です。その為、図書館で出会った若者と似ている人物が彼の記憶の中に皆無であるという事実が、その時の彼にはまた不思議な出来事に思えるのでした。
見知らぬ青年に出会ってから1週間ほどして、紫苑さんは久しぶりに図書館の戸口を潜りました。それとなく館内を眺めてみます。彼は1週間ほど前に図書館の玄関で出会った、あの笑顔の青年を捜しているのです。
『来てないな。』
何だかほっとしました。緊張していた気持ちが緩みます。何しろ彼にとってはそれまで見た事も無い青年です、あの時だけ来ていたのかもしれないな、彼はそう思いました。そう思うと彼は何だか気が抜けてがっかりした気持ちになりました。彼は近くの机の椅子に寄って行くと力なくそのままどっかりと腰を下ろしました。
家からここまで歩き続けて来たからと、ちょっと休憩とばかりにひと休みしました。座ったままぼんやりと紫苑さんが考えるのはやはり例の青年についての事でした。この時、彼の人生の記憶の中には若者に似た面影の人物が1人浮かんでいました。それは彼の教え子の1人では無く、彼の級友の1人でした。紫苑さんにとってはもう遠い昔の記憶なので、その人物について思い当たったのは2日前の事でした。思い出した時には、おおそうそうと、そんな人もいたなぁと感慨深く、彼はその人を思い出せたことを非常に嬉しく思いました。