「智が死んだなんて、お義父さんの勘違いじゃないですか!。」
思い切って口にすると、ややぷんとした顔付きで舅から身を反らした嫁である。それに対して舅は少々怯んだ気配になった。が、廊下から如何やってこちら側が見えたものだろう、透かさず「お父さん、負けちゃダメ。」と、姑の小声ながら、夫に対する応援が確りと入った。
これらの事に、何方へ如何という感じで私の祖父は躊躇していた。うろうろと行こうか戻ろうかと足をもたつかせている。と、
「一寸待っておくれ。」
これは私の母に彼が言った言葉だ。次に祖父は居間へと歩を進め、廊下の様子が見える位置にまで達すると、
「お前そこにいたのか、何をしている。」
そう廊下に向かって声を掛けた。後は彼の息子や妻への小言めいた言葉が続いた様子で、彼の不明瞭な声がぱらぱらとこちら迄聞こえていたが、
「今は子供の事より、孫の事の方を優先させなさい。」
そう妻や息子に言うと、
「いいね、家の者の緊急度を考えて行動するんだ。その者に合わせて動くんだよ。」
こう彼は廊下の妻子に言い捨てて、この家の嫁である私の母のいる場所迄足早に戻って来た。
真剣な面差しで戻って来た祖父は、彼の顔付きだけで無く、次に口にする言葉にも差し迫った緊迫感を込めた。
「姉さん、騙されてはいけない!」
「これが手なんだ。これが魔が来る兆しなんだよ。」
「死が訪れて来る前触れの様な物なんだよ。」
これがね。そう祖父は段々と消えゆく様な声音になり、自分の興奮した感情を自ら抑える様な調子へと変わって行った。
祖父は私の母に諭すように言っていたが、彼は物言う内にあれこれと考えを巡らせながら言っているという顔付に変わった。その内彼はうわ言の様な声音になったが、それはこの先の家での、それぞれの家人の役割やその行動の方策を練っていたからだった。
そんな祖父は、直ぐに今後の母に対する言葉を発し出した。その時の彼はもう普段の声音に戻っていた。
「私は戦地で何度も見たがね、多分お前さんは初めてだろう、内地にいたんだから。お前さんの実家の方は平和だったからね。」
「あら、お義父さん、そんな事も無いですよ。」
と、母。あの時は何処も同じですよ、と、義理の父の言葉に彼女は取り成した。
それに対して祖父は、「否、あんたのその様子では違うね。人のこういった魔という物が静かに忍び寄って来ている時の事を知らないようだ。」
と、自分の主張を通した。
お前さんはね、頭を打ち付けた人のその後の経過という物を、殆ど知らない様子とみえた。この後に人の終焉が、別れが忍び寄って来るんだよ。頭をしたたかに打ち付けた人の最後という物は、後から時間を置いてゆるりとね、その人に訪れるものなんだよ。
そんな怪奇じみた祖父の語り口に、思わず釣り込まれるように私の母は彼女の舅の側へと2歩3歩と歩み寄った。
「では、ではお義父さん。」…、母は何やら口の中で呟いた。「そうだ、もう駄目なんだ、智はね。気の毒だが、あんたの最初の子はもうとっくに死んでいるんだよ。」舅は嫁にきっぱりとした口調で、きちんと引導という物を渡した。
そんな祖父の凛とした姿に、ううむ、祖父はきりりとしているなと私は階上で感じ入っていた。そんな私は現状を全く理解していなかった。先程迄、祖父と私の2人だけだった時には、彼は可なりおろおろとして階段をうろうろと上がったり下ったり、右往左往していた只の平凡な人の祖父だったのだ。が、家の嫁である私の母の姿がこの空間に現れるやいなや、彼女のその存在に彼はしゃんとして男らしくなり、一家の主然としてその場を取り仕切る主人の姿へと変貌していた。彼はこの家の大旦那の風格を兼ね備える人物として、この場を取り仕切り、采配する立場という重責を担うべく、既に我が家の統率者になろうとしていた。