年齢を重ねるほど、自分がいかにモノを知らないか、知らないことがいかに多いかに気づく、というのは本当だ。
私にとってのキリスト教とかキリスト教文化といったものはまさにそれで、海外文学、特に古典を読んでいても、ベースにあるキリスト教的世界観をすっとばしているから、核心部分をちゃんと理解していないような、どこか頼りない、情けない気分になることがある。
たまたまカトリック系の大学にやってきたのも何かの“ご縁”であり、研究室の窓を通して聖イグナチオ教会の鐘の音が聞こえてきて、学内をフツーに神父服の方々が歩いているような環境なのだから、少しずつでいから、“キリスト教とかキリスト教文化といったもの”について、ある程度、というか常識の範囲内くらいの知識は得たいなあ、と殊勝にも思っていた。
すると、『考える人』(新潮社)の最新号が、いきなり(と感じられる好タイミングで)「はじめて読む聖書」なんていう特集を組んでくれた。
それにしても、うまいタイトルだなあ、これ。
「はじめて読む資本論」でも、「はじめて読む論語」でも、「はじめて読むスラムダンク」でも、「はじめて読むAKB48」でも、何にでも応用自在で、しかも、本当につい読みたくなる(笑)。
この特集も、ラインナップ(誰が、何を、書いているか)を見ただけで、引きこまれてしまう。たとえば・・・
内田 樹 「レヴィナスを通して読む「旧約聖書」」
池澤夏樹 「読み終えることのない本」
橋本 治 「旧約的なものと新約的なもの」
吉本隆明 「マタイ伝を読んだ頃」
ほら、『考える人』っぽいメンバーでしょ(笑)。これにハマるのです。
“キリスト教とかキリスト教文化といったもの”に関する勉強の、初めの一歩の、その助走の、そのまた前の準備体操かもしれないが、まずは「はじめて読む聖書」を読んでみようと思うのだ。