先のスクーリングでは、既報の通り地域再生がテーマでした。
担当教授は、
東京の国際間都市競争に勝ち抜くための大型開発などのとりくみを是としながら
一極集中をなくし、地方の再生をと言い
地域再生の事例としては
上勝町の葉っぱ事業や中山間地の林業で町おこしをしている自治体などが紹介された。
また中核市として人口を集めることを重視しているようにも思えた。
集落が散らばっていることで効率が悪いということだろうか?
しかし、この間の合併で
多くの自治体が中核市をめざし合併を進め、中核市への格上げが多くの自治体で行われたが、
人口30万人以上 を達成するための合併なので
中心市街地に大量の人が住んでいるわけではない。
広大な市域に集落が点在しているのが実態である。
こうした自治体に権限が下りてくるのだが
それに財源が伴って来る保障はない。
事業が押し付けられ、財源は自前でとなりかねない中核市の実現は危ういものがあると
私は 感じる。
こんなことを思いながらスクーリングを終えた。
その後、私のふるさと奄美の自治体の経営や企業誘致などを調べているという
大阪府立大学の斉藤憲教授の取材を受けた。
私が 子どもの頃
わが出身地の鹿児島県大島郡瀬戸内町では
60年代、実に多くの企業を誘致していた。
私が覚えているものだけでも
パイン(パイナップル)の缶詰工場
我が家の近くにあったがパイナップルの輸入自由化でつぶれた
豚の場(と思っていたらハムの製造工場だったらしい)
事業開始初日、ハムにする豚が7頭しか集まらなかったと斉藤教授
大型製糖工場(拓南と命名していた)
我が家の近くにあった。サトウキビを安く買いたたくので農民が作らなくなり、サトウキビが集まらずつぶれた
国民宿舎
海水浴場にあったが管理が悪く集客力無くつぶれた
等々である。
これらはいずれも 一人の町長が誘致・設置したらしい
斉藤教授は こんなに企業誘致に固執した町長はほかには出ていないと言われた。
当時私の伯父が共産党の町議会議員をしており
その議会における拓南製糖工場誘致議案への反対討論の議事録のコピーを
斉藤教授が下さった。
反対討論は、
当時あった集落の小さな製糖工場をつぶして大型製糖工場に任せてはいけない
と説いていた。
しかし、拓南製糖工場は誘致され、先に述べた通りつぶれた。
結果、集落の多くの製糖工場がつぶされ
今は、観光資源にもできない
ただ、製糖工場を守り続けた集落があり、
おかげで今も瀬戸内町の黒砂糖が食べられる。
それはともかく、こうした企業誘致は結果として
何れも数年で破たんした。
伯父が亡くなって久しいが
伯父の議会での活動そのものは知らなかっただけに感慨深いものがある。
斉藤教授は、
70年代に奄美に石油備蓄基地を誘致する動きがあり
それを中心に調査しておられるようであったが
幸いなことにその企ては
多くの島民の反対でとん挫
その中心になった人々の名前を挙げてくださったが
多くの人が、私が子供のころ町の有力者として有名な方々であった。
当時、深いところまで知ることができていなかったが
この間の大型台風などの災害で
原発のような
危険物貯蔵施設での災害被害を被る条件を廃しただけでも
当時の大人たちに感謝したい。
2つの出来事を経て
地域再生とは 経済発展を目指すことなのだろうかと
改めて考えさせられた。
我が東村山市も 選ばれる地域を と市長がよく言う
東京近郊の住宅都市として
本当に、人々が欲する街がどんなものか
市民全体で考えるべき時ではないだろうか
大きな道路を縦横に通し、街を分断し
大きな企業を呼び込むことが東村山市の理想の街づくりなのだろうか
23区に働く若い世代が子育てのために移り住み、
静かな住宅都市としてのわが市に老後も安心して住める街づくりこそ
目指すべきではないかとの思いを
スクーリングと斉藤教授との話を通じて
新たにしたところである。
担当教授は、
東京の国際間都市競争に勝ち抜くための大型開発などのとりくみを是としながら
一極集中をなくし、地方の再生をと言い
地域再生の事例としては
上勝町の葉っぱ事業や中山間地の林業で町おこしをしている自治体などが紹介された。
また中核市として人口を集めることを重視しているようにも思えた。
集落が散らばっていることで効率が悪いということだろうか?
しかし、この間の合併で
多くの自治体が中核市をめざし合併を進め、中核市への格上げが多くの自治体で行われたが、
人口30万人以上 を達成するための合併なので
中心市街地に大量の人が住んでいるわけではない。
広大な市域に集落が点在しているのが実態である。
こうした自治体に権限が下りてくるのだが
それに財源が伴って来る保障はない。
事業が押し付けられ、財源は自前でとなりかねない中核市の実現は危ういものがあると
私は 感じる。
こんなことを思いながらスクーリングを終えた。
その後、私のふるさと奄美の自治体の経営や企業誘致などを調べているという
大阪府立大学の斉藤憲教授の取材を受けた。
私が 子どもの頃
わが出身地の鹿児島県大島郡瀬戸内町では
60年代、実に多くの企業を誘致していた。
私が覚えているものだけでも
パイン(パイナップル)の缶詰工場
我が家の近くにあったがパイナップルの輸入自由化でつぶれた
豚の場(と思っていたらハムの製造工場だったらしい)
事業開始初日、ハムにする豚が7頭しか集まらなかったと斉藤教授
大型製糖工場(拓南と命名していた)
我が家の近くにあった。サトウキビを安く買いたたくので農民が作らなくなり、サトウキビが集まらずつぶれた
国民宿舎
海水浴場にあったが管理が悪く集客力無くつぶれた
等々である。
これらはいずれも 一人の町長が誘致・設置したらしい
斉藤教授は こんなに企業誘致に固執した町長はほかには出ていないと言われた。
当時私の伯父が共産党の町議会議員をしており
その議会における拓南製糖工場誘致議案への反対討論の議事録のコピーを
斉藤教授が下さった。
反対討論は、
当時あった集落の小さな製糖工場をつぶして大型製糖工場に任せてはいけない
と説いていた。
しかし、拓南製糖工場は誘致され、先に述べた通りつぶれた。
結果、集落の多くの製糖工場がつぶされ
今は、観光資源にもできない
ただ、製糖工場を守り続けた集落があり、
おかげで今も瀬戸内町の黒砂糖が食べられる。
それはともかく、こうした企業誘致は結果として
何れも数年で破たんした。
伯父が亡くなって久しいが
伯父の議会での活動そのものは知らなかっただけに感慨深いものがある。
斉藤教授は、
70年代に奄美に石油備蓄基地を誘致する動きがあり
それを中心に調査しておられるようであったが
幸いなことにその企ては
多くの島民の反対でとん挫
その中心になった人々の名前を挙げてくださったが
多くの人が、私が子供のころ町の有力者として有名な方々であった。
当時、深いところまで知ることができていなかったが
この間の大型台風などの災害で
原発のような
危険物貯蔵施設での災害被害を被る条件を廃しただけでも
当時の大人たちに感謝したい。
2つの出来事を経て
地域再生とは 経済発展を目指すことなのだろうかと
改めて考えさせられた。
我が東村山市も 選ばれる地域を と市長がよく言う
東京近郊の住宅都市として
本当に、人々が欲する街がどんなものか
市民全体で考えるべき時ではないだろうか
大きな道路を縦横に通し、街を分断し
大きな企業を呼び込むことが東村山市の理想の街づくりなのだろうか
23区に働く若い世代が子育てのために移り住み、
静かな住宅都市としてのわが市に老後も安心して住める街づくりこそ
目指すべきではないかとの思いを
スクーリングと斉藤教授との話を通じて
新たにしたところである。