今日 9月15日付の赤旗テレビラジオ欄に
Eテレで8月28日放送された「バリバラ」の「検証!『障害者×感動』の方程式」の紹介があった。
視聴しなかったのが残念でならない思いに駆られた。
内容は
口でペンをくわえて絵を描く少女
を描いた映像が
「自分の人生は最悪だが彼らよりもまし」
と思う健常者の事例をあげ
障害者が頑張る映像が 感動を与える道具となっていると指摘。
製作者がわの意に沿わない
前向きでない当事者の発言が削除されるなどの工作が行われて
感動の場面が作り出される
とも。
そして、NHK自身の障害者の描きを検証し
1950年代の 不幸でかわいそう
に
80年代からは けなげで頑張る
が掛け合わされ
感動の方程式が完成した
と
メディアの責任にも踏み込んだようである。
「障害者の頑張る姿=感動」
への違和感は
この夏、障害者の生活実習所で福祉実習を終えた今
実感を伴って理解できる。
実習先の施設で、
「こんな支援は違うよ」ということをまとめた職員用研修誌を学習した。
そこに
あなたは「目標に向かって必死に頑張る利用者×目標達成へ利用者のお尻を叩いて頑張らせる支援者」が理想の支援だと思っていないか
と言う意味の事例が掲載されていた。
実習中
出来ないことを出来るようになることもありだが
日常の生活を楽しんで生きること
仲間と一緒にいることや活動そのものを楽しむ力
毎日実習所へ通ってくることができる健康状態の維持
そんな利用者の隣で並走して
利用者一人ひとりのニーズ・興味・趣味に合わせて
それを実現するために一緒にとりくむ支援こそ必要で
それは息の長い、支援なのだ
と学んだ。
相模原で 自分の意思を示せない障害者は生きる価値がないと殺害した事件が起こったが
隣で 寄添って 共にいることで
その意思が理解できることも実感した。
感動を与える存在としてではなく
障害があろうとなかろうと
全ての人がその存在そのものをもって尊敬に値するのだという考えこそが共有されるべきではないだろうか。
番組を視聴できなかったことをこんなに後悔したことは無い。