東北被災地2県を訪ねてー陸前高田へ

2019-09-23 18:32:38 | 災害について
三日目は
宮古の田老地区を訪ねた後、陸前高田へ。
事前に、陸前高田の道の駅がプレオープンしているのが分かったので行ってみることに。

その途中で、高い防潮堤の内側を見ることが出来た。
沖合に牡蠣の養殖いかだが見えていた。
牡蠣の出荷をしている港らしい。
海側は 普通の漁港に見えるが、
防潮堤の外からは 港がどういう状況になっているのか全く分からない。
防潮堤の上に登ることもできたが とても高い。
地域の皆さんは どう思っているのだろう。

田老地区のボランティアガイドが
「高い防潮堤では、津波の状況がこちら側からはわからない。
それが 非難を遅らせることになりかねないという危惧を持っているのです。」
とおっしゃっていたのを思い出した。








さて、私は初めての陸前高田
他の人々は、嵩上げ前を知っているので、実際はこんなに低いの?と言う感じらしい。
それでも かつての地盤が分かるところもあり、
嵩上げの高さも実感できた。
残念ながら 遺構・伝承館はこの22日のオープンだったので拝見出来ず。
しかし、道の駅には珍しい貝もあった。
鳥がいの仲間らしい。
唯一ここでしか養殖していません と販売の男性。
食べてみたかったが 残念ながら食すことは不可。
生きいいところくをみてほしいと、塩をまぶして動かしてくれた。




陸前高田の被災地を上から見渡せるところはないかと探して、
アリーナの駐車場を見つけた。
地方の穏やかな田んぼなどの風景が広がっている。
しかし、駅があった辺りなどは、住民の宅地は少し、
飲食店や大型スーパーなどが進出していた。

被災した公営住宅の建物も残されていた。






被災地は 国道の整備が進み、新しい道路も新設されていた。
便利になったのかどうか 通りすがりの私にはわからないが
少しでも、地元の人々の願いに添っていればよいと願うばかりである。

震災後 久しぶりの東北訪問であった。
計画をしてくれた仲間に感謝である。

また、今の自然を楽しみながら、被災地の現状を知る旅を計画したい。

東日本大震災被災地2県を訪ねてー宮古

2019-09-23 16:41:29 | 災害について
二日目は宮古に泊りました。

宮古は田老地区の遺構・伝承館を訪ねました。
始めの写真は
田老地区の 被災した観光ホテルです。
このまま 遺構・伝承館として保存するそうです。







そもそも田老地区は 過去の津波の経験から
元々防波堤が万里の長城と言われるほどたかったらしい。
でも、今度の津波は それを更に超えてきたと・・・
すぐ下の写真は 昭和のはじめに造った防潮。
鉄筋も入っておらず、今度の津波で壊れたらしい。


今、新しい防潮堤は、古い堤体につなげて作っている。
この堤体は旧の堤体です。
下2メートルほどが埋まっているそうです。


案内を予約した視察の方々に説明しているガイドさんが
防潮堤 高すぎて海が全く見えませんよね
これでは 災害時 海の様子が分からなくて
何時避難したらよいか判断に困ると思っているのですよね。
と説明していました。

防潮堤工事にも地元の理解が必要だし、被災を最小にするために地元の意見が必要だと思うのですがね!


上は みんなが非難した丘の上です。
土手に今度の津波の高さが記してあります。
低く見えますが、地盤が上がっていることを認識してください。



東北被災地2県を訪ねてー気仙沼市

2019-09-23 16:06:16 | 災害について
14日夜は 気仙沼に宿泊
宿舎のある地域は津波被害があった所です。
暗くなってから着いたので、翌朝、近くを歩いてみました。

目の前には 気仙沼漁港があり、魚市場も再建されていました。
朝早くから 直売場も開いていました。
その壁面に、津波の高さが記録されていました。









気仙沼市の東日本大震災遺構・伝承館へ行ってみました。
元水産高校の校舎です。
まず、映像で被災状況を見た後、校舎内を見せてもらいました。
校舎は 見た目 あまり被害はないようです。
しかし、一歩中に入ると被災の後が生々しく残っていました。












体育館は 当時の津波で、屋根がそのままはがされたと言います。
当日生徒たちは全員避難し、
改修工事をしていた事業者と、職員室に残った職員は屋上に避難して無事だったと言います。





ここでも 被災状況を正しく後世に伝え、
災害被災を少なくしようという決意を知りました。

高校の屋上から見渡す かつて水産加工などの工場があった地域は
広大な跡地が広がり、工事が進んでいましたが、
建築物ではなく、市民みんなの遊技場の造成がされているようでした。
被災前のジオラマには、たくさんの住宅があり、田舎の普通の集落が広がっていましたが、
今は それを再現することは無いようです。

地域の皆さんが 今を一生懸命に生きていらっしゃることに敬意を表します。

東北被災地2県を訪ねてー仙台・石巻

2019-09-23 15:30:52 | 災害について
9月14日~17日
労組の事務局メンバーで東日本大震災の宮城・岩手二県を巡りました。
仙台からレンタカーにて
まずは 仙台市の荒浜地区から

下の写真は 仙台荒浜地区の旧荒浜小学校です。
三階まで津波が来て、4階の教室の床まで水が・・・
校舎のベランダ側の手すりは外からの遺物で壊されたまま

校舎は 震災遺構として後世へ津波の被災を伝える施設になっています。
この施設では、被災当時の地域住民の避難の様子などを自治会長が話し、
校長先生が学校への地域住民の避難場所のシミュレーションが押し寄せる津波で次々に変更させられたこと。
また、生徒たちの避難訓練を、それまでの避難所へ行くことから、高いところへ、屋上へと変えたことが役に立ったと



img





下は 石巻市の旧市民病院があったあたり
日和山から見渡しました。
瓦礫が山と積み上げられていたころとは
もちろん全く違いますが整理(?)がついてきたように見えます。





この後訪ねた地域も含め、
被災地は 津波被害の大きさを後世に伝え、必ず逃げることを優先するよう伝えたいと願っているようでした。
被災地めぐりの第一歩です。

台風9号 市内に爪痕 学園通りもやっぱり冠水

2016-08-22 18:55:34 | 災害について
台風9号に追いかけられ
本来今日までのはずの式根島の旅
昨日切り上げて帰ってきた。

今日は予報通り台風襲来
我が家は被害は無いが
西武多摩湖線の脱線、空堀川が危険水位を超えたとか
被害が心配される。

近所の状況は と考え野火止用水へ
富士見橋 暗渠の流水講に流木などが詰まり溢水の危険も
地域防災組織の方と一緒になったので
放置したら危ないかもね

役所へ一報を入れた。

後刻、廻ってみたら排水口が大きく確保されていた。
綺麗にしていただいたみなさんありがとうございました。

他方
近所で大雨でいつも冠水する道路がある。
富士見町の学園通りである。
排水溝に落ち葉が集まり、排水能力が無くなるからだ。
車が、歩道に人がいてもお構いなしに水しぶきを上げて通り過ぎる。

ここは、仕方ない、私の仕事だと考え
いつも排水溝のつまりを除くことにしている。
今日も案の定 冠水していた。
怪我の防止に長靴を履き通りに向かった。
泥水で排水溝がどこにあるかわからないので
足で探りながらあたりをつけ、落ち葉を溝の真ん中に寄せる
桜花女学院とさやま園、大規模マンションの両側の排水溝をなんとかするのに
一時間ほど掛かった。

その間、気の利いた車の運転手は、スピードを落としてくれるが
道端で仕事をしていることを横目に遠慮なく水しぶきをかけて行く車が・・・
品格と言うものを感じる

道路課や防災課が手が足りないのはわかっているから
ここは電話はかけない。
でも、通りの冠水を繰り返させるのはいかがかといつも思う。

この道路は、
桜花女学院の運動場や福祉施設敷地から水が流れ込む。
せめて、大雨や台風時、東村山市がお願いして、
その時だけは『排水溝の通水にご協力を頂く』なんてこと考えたらよいと思う。
施設や学校には緊急対応の人が必ずいるのだから
災害にならないうちに防止するための市民としての協力をである。

ずぶ濡れで帰宅しつつそんなことを思い

次の台風の時のことが思いやられてならなかった。

熊本地震 何と言ったらよいのか でもがんばって!!

2016-04-18 23:27:47 | 災害について
熊本地震
その夜 9時代のニュースで知った。
TVで情報を得たいと遅くまで見ていた。

TVの映像では それほどの被害は無いように思えた
(人の命に係わる情報の有無も含め)
しかし、翌朝のTV報道では被害があったと・・・

その翌15日
いや 前日のは 前震で 本震は今日だったのだと
専門家の言

大きな揺れで さらに被害が大きくなり
余震の多さに 不安はなくならず
建物の中にいることが不安な状況で
住民が建物の外で避難していることに対し
県と政府の齟齬も生じているようだ

本震によって 被害が広がり
地震もいつまで続くのか不明な状況に
被災者及び地域の皆さんの不安は大きくなるばかり

私は、何もできない状況に
ただ
申し訳ないという気持ちを持つしかない
義援金で支援をしたいと気持ちを表し
でも、
救援物資が 全ての避難所、
被災者に行き届けるシステムが
上手くいけばよいのにと思うばかり

被災者の皆さん
他の地域の人々も 何かしたいと 
ジリジリとした気持ちでいます。
「がんばれ」と言うのは、
度重なる震災被災地の現実を見れば
酷なことはわかっていますが
それでも
踏ん張ってください。

私たちも
皆さんの支援に頑張ります。

なぜ繰り返される 避難情報の遅れ

2015-09-13 07:50:51 | 災害について
10日の鬼怒川の堤防決壊
自衛隊や消防や海上保安庁などの救助の様子に釘付けだった。
が、今日の新聞報道に堤防が決壊したにも関わらず
避難指示が2時間以上も経ってから出されていたとか
これまでも多くの被災地で
こうした避難指示の遅れが問題になっていたにも関わらず
なぜ繰り返されるのであろうか

防災訓練や震災訓練は毎年やっているだろうに!

他地域の被災が他人事という考えがその根底に潜んでいないだろうか
住民の命を守る責任がある自治体の
実効性ある災害対策を求めたい。

鬼怒川決壊の場所は
国土交通省が改修予定であったとか
であればなおさら
決壊を予想した警戒と避難の早期開始へ取り組むべきだったのではないか。

これは後でなければ判らなかった事ではない!

失われた命は戻らない
今回の被災を他人事としない自治体の取り組みを求めたい!

大好きな母を忘れそう-被災地の子どもに向き合う体育実践より~その4~-

2014-09-16 16:32:17 | 災害について
ある生徒の作文

あの震災から1年以上が過ぎました。今思えば震災について本気で考えたことがありません。いつもどこかに綺麗事をまじえて考えていたような気がします。

私たち3年生にとっても中学校としても最後の運動会の日、最後の企画で風船を大空に飛ばしたとき、涙が溢れてきました。風船には未来の願い、辛さや悔しさ、様々な思いを込めました。風船を飛ばすことで願いが叶えばいい、辛さや悔しさが無くなればいい、そう考えていました。
けれど、なかなか風船を放し空へ飛ばすことができませんでした。理由はわからなかったけれど、今考えるとわかるような気がします。

私は大好きな母を忘れそうになっています。忘れたくない、そう思っているのに少しずつ消えてしまいます。震災が起きる朝に交わした言葉も、声も顔も動作も。思い出せないことが多くなっています。それがとても怖いです。母が私の中から消えそうで怖いです。そして忘れていってしまう自分が嫌でしようがありません。

風船をなかなか飛ばせなかったのも「忘れてしまう」と思ったからだと思います。

大好きな人が死んでしまう-私にとってそれは非現実的なものです。正直、母は死んでいないと思っています。いつかひょっこり現れて、何事もなかったかのようにいつも通りの生活に戻る。私の名前を呼んで、他愛もない会話をしたり、私の成長を見て笑ったり泣いたりしてくれる。こんなこと考えてもどうしようもないと思いますが、私はそういった普通の幸せに夢を見て、いつか叶うと信じているのです。そう思わなければ、いつか自分が不安で悲しみで押しつぶされそうになる気がします。

この間、3年生にとって大切な進路説明会がありました。私は進路説明会があるというお知らせを父や祖母に渡せませんでした。父は仕事だと知っていましたし、祖母は学校に来るのが大変でしょう。一番後ろの席に座り、私だけでも大丈夫と思っていました。

けれど、みんな親がきて隣に座る。それを見た瞬間、少しだけ泣いてしまいました。それだけで泣いてしまう自分が情けなくて、母がいないことを改めて実感させられたような気がしてとても悲しかったです。


母に会いたい気持ちが溢れてきます。自分の嫌なところやダメなところがどんどん見えてきます。人に頼りたいけど、そうすると相手が困ってしまうから相談できない。そう自分に言い聞かせていますが、本当はただ自分が相談したくないと思っていて。母を想う気持ちは私だけのものであり、それを他の人には言いたくないのです。こんな矛盾に嫌気がさします。

そして辛いことや悲しいことがあっても大半は誰にも相談しないで自分の中に詰め込みます。小さい頃から相談するのが下手でした。だから、自分の中に溜めることに慣れてしまい、それが私にとって普通なのです。

よく友人に「無理するな」だとか「背負い込みすぎなんだよ」と言われます。そんな優しさに泣きそうになります。この頃、少しずつですが人に頼れるようになったような気がします。今ならあまり相談することのできなかった母にも頼れる気がします。

けど、もう近くにいないから母親がいる家庭が少しだけ羨ましいです。甘えることのできる母親がいて、心配されて、愛されて、成長を見届けてくれる母親がいる家庭。

去年の運動会も、今年の運動会でも、精一杯頑張りました。けれど、いつも最後にぼんやりしたなにかが残ります。一生懸命練習してきたことが一日で終わってしまう寂しさかと思っていました。たぶん、そういう寂しさもあります。でも、もしかしたら母親がいないからどこか心にぽっかりと穴があるのかもしれない。母と一緒に喜びたい、褒められたい、そんな願いがあったのかもしれません。

私にとって、母は尊敬する人であり、大好きな人です。そんな母がもういないからといって、前に進むためには忘れることはできません。母のことを時間が経つにつれ、忘れてしまうのだったら時間なんて経ってほしくないです。

そんなことを言ったら母に怒られるでしょうけど、これが私の本音です。けれど以前母に「生きている人を大切にしなさい」と言われました。母が大好きで、死んでしまったことをまだ理解できなくて、不安で怖くて。そんな思いでいっぱいでしたが、私には母だけではないのです。心配してくれる人や笑い合ってくれる友人、慕ってくれる後輩。全ての人が大切で、私を支えてくれています。

母は死んでしまったけれど、まだ生きている、いつか会えると信じます。信じていても生き返ることはないし、母を忘れてしまう恐怖感はまだあります。けれど、その気持ちが私にとって前に進むための理由になります。

これから大切な仲間とともにたくさんのことを体験し、自然と涙が溢れる、心に残る思い出にしていきたいです。そして、母に会ったら自慢して、一緒に笑いあいたいです。

以上が作文全文です。
先生は、これをパソコンに入れていた時に涙が溢れて仕方がなかったと行っています。
ご自分の「非当事者性」に愕然としたともいっておられました。

私も、これを読んで涙が止まりませんでした。
当事者である子どもたちの負っている大きな苦しみを
本当には理解していなかったのだと
自分の「非当事者性」に苦しみました。

被災地の子どもたちすべてが、何らかの苦しみを抱えて生きており
それを覆い隠し、自分でもどうしたらよいかわからずに
それでも前を向いて生きようとしている
そのことをわかっただけで
今年の夏の自治体学校に参加した意義があったと
制野先生の報告にお礼を言いたいです。

長文を最後まで読んでいただいたみなさんありがとうございました。

被災地の子どもに向き合う体育実践 ~その3~

2014-09-16 16:13:28 | 災害について
鳴瀬第二中学校の最後の運動会は
いつかまたあの美しい故郷に帰る日を信じ、
共に支えあってこの困難を乗り切ろう

希望を載せて風船を飛ばして終わった。

この風船を最後まで飛ばせない生徒がいた。

自分が持っている風船を飛ばしたくない
飛ばしたら終わってしまう
きれい、美しいとありきたりの言葉では言い表せない
風船にはみんなの様々な想いが込められている
風船に鳴二の統廃合への悔しさや
復興への願い
未来中学校になっても鳴二の魂を後輩たちに引き継いでほしい
という思いを込めて

一番最後に風船を飛ばしたのである。

制野先生はもう一度作文を書くよう生徒に呼びかける

その4に、生徒の作文の全文を掲載する。
朝日新聞に掲載されたのですでに読んだ方もいると思う。
でも、私は被災地の子どもたちの心の奥底にある悲しみや苦しみを
この作文から学んだ。
通り一遍の慰めや励ましをしているつもりはなかったが
この作文を読むと
如何に子どもたちの苦しみが判っていたなかったかと後悔するのである。

今さらながらの感もあるが
これを紹介するのは
私も負わなければならない責任だと感じるからである
その4はぜひ読んでほしい

被災地の子どもに向き合う体育実践より~その2~

2014-09-16 16:12:39 | 災害について
その1で述べたとおり
震災の2年目、鳴瀬第二中学校の廃校が決まった。

その年の運動会
地域に根差した学校の良さを前面に押し出せば押し出すほど
悲しく、悔しく、憤りを禁じえなくなる
運動会を成功させることは
逆に統合への後悔を増幅させることになる
との想いが強くいい案が浮かばなかった
と制野先生は回想している。

しかし、運動会は
創立以来の卒業生でつなぐ聖火リレー
津波で流されず残った神輿を引く引き綱づくり
地域の人々の“勝手な”応援による大天狗入場
学校伝統のエジプトダンスなど
生徒たちと保護者、地域の人々の想いを込めて行われた。

復興の決意を述べた生徒は
学校を失う悔しや
ただ希望だけを語ることはできないと悩みぬいた末
以下の決意を述べるのである。

鳴瀬第二中学校の運動会もいよいよ終わりが近づいてきました。
今年の運動会のテーマ「5347人の軌跡」の通り、
昭和33年の開校以来54年間、
鳴瀬二中はこんなにたくさんの生徒の学び舎として
エジプトダンスや民謡踊りなどの伝統を築きあげてきました。

しかし、残り7カ月で55年の歴史に幕を閉じなければなりません。
私たち1・2年生は鳴瀬二中生として、
あの松林に囲まれた校舎に
一度も足を踏み入れることなく閉校してしまうことにショックを受けました。
先輩方が慣れ親しんだ校歌や
鳴瀬二中の象徴である松葉と波を表した校章が
私たちで途切れてしまうことに寂しさと悔しさがこみ上げてきます。

私は生まれ育ったあの野蒜の町や宮古の風景が大好きです。
いつの日かまたあの思い出の風景を取り戻し、
さらに美しい町がつくれるよう精一杯がんばろうと思います。
私は
まずあの松林を元に戻すために
松の苗を植える運動を新しい中学校でも呼びかけていきたいです。
これが私の復興への決意です。
(以上改行は福田の責任で行いました)

制野先生は、悩む生徒に
思ったことをなんでも書いて良いと励ます
そして、
中学生が悩んで紡ぎあげた言葉を非難する者がいたら
毅然と立ち向かう覚悟であったと述懐している。

そして
「松の苗を植える」と宣言した言葉が計り知れない悔しさを象徴している
とその生徒の想いを受け止める。

実践報告で制野先生は
すべてを失った子どもたちから学校まで奪うこの日本という国は
何なのだろうと告発している。

私は、この報告を聞きながら何度怒りを覚えただろう。
子どもたちの心に寄り添う
制野先生はじめ学校長を含めた教職員の努力があるからまだしも
日本という国の非道さを今さらながら痛感した。