三月 法事で帰省した。
わが故郷奄美大島は 北から南へ車でおよそ二時間の小さな島だ。
私の実家は
奄美空港から 国道58号線を南へ一時間半
最南端の瀬戸内町(せとうちちょう)にある。
子どものころは 実家から旧名瀬市まで、バスで二時間半
名瀬市から奄美空港まで一時間と
とても長い時間かかった。
しかもその国道たるや 七曲は当たり前
坂道をくねくね幾度も幾度も曲がりながら登って、
次は同じだけ幾度も幾度もくねくねと曲がりながら下る。
それが一つではないから厄介だった。
往き帰り必ずバス酔いをする有様だった。
でも、この頃はトンネルが十くらい彫られ、ほぼ真っ直ぐになり、
車酔いなど全くと言っても良いほど聞かなくなった。
しかし、それはそれで峠からの海を眺める美しい風景は見られない。
そこで、わが姉妹は帰省の度に旧道をドライブするのを趣味にしている。
ここの所 昔、三太郎茶屋と言うのがあったというが、どこにあるのだろうね
と言うのが興味の対象になっていた。
そこで、この三月、探してみることにした。
三太郎峠は 先のバス酔いの最たる峠だった。
この峠を越える旧道を行って、三太郎茶屋を探した。
三太郎茶屋跡の目印を見つけ曲がったものの、なかなか見つからず、
環境省(?)の職員に行き会い、
この先いけますか と聞いたら、「行けますが麓まではその車ではいけません。」と言う。
行かれるところまで行ったが見つからず、
仕方なく引き返したら、下の道にでるところで見つけた。
それがしたの写真である。
島から帰って、三太郎峠について調べてみた。
インターネットでも色々な人が書いているが、
その昔三太郎というお爺さんが住んで茶屋を開いたから三太郎峠と言うらしいことは分かった。
そして、その三太郎翁について書いたものがあることが分かった。
まず、柳田国男の『海南小記』である。
東村山市の図書館で借りて読んだ。
が、三太郎翁の来歴やなぜ茶屋を開いたのかはわからなかった。
もう一冊の書籍『奄美の森に生きた人』はそれを解き明かしているらしい。
が、出版社にはなかった。
鹿児島大学の図書館が所蔵してたが、貸し出しはだめであった。
インタネットを駆使し、手を尽くして探したら、
奄美のある店に在庫があり、4月3日、手に入れることが出来た。
ここ二日間で読んだ。
三太郎峠はその昔、海路しかなかった奄美に、
1890(明治20年代)年代、現奄美市住用町の人々が、住民の力で切り開いた道であったらしい。
県は請願に対し許可したが、お金は出さなかったそうだ。
道ができた後、その峠を 自ら切り開き茶畑やみかん畑やシイタケ栽培などをしながら
道行く人々の役に立つ休憩場所にしようと考えたのが、鹿児島川辺郡出身で農業指導員であった
畠中三太郎であったという。
当時は美しいみかん畑や茶畑があり、麓の少年たちのあこがれの地であったそうであるが、
今は、その気配もない。
今度行ったとき、もう一度よく見たいと思う。
しかし、茶屋ができてまもなく、バスも通る道路計画が持ち上がり、
1917年、三太郎茶屋をさけて開通した。
それでも、麓の人々は 飲み水五十六運んでやったり、薪を運んでやったり、
日用品を運んでやったり、峠の茶屋の夫婦を世話し続けていたそうだ。
三太郎翁は昭和七年三月、布団で冷たくなって夫人がおろおろしているところに
当時の郵便配達の少年が通りかかり、麓の人々に知らせ弔ったそうである。
そのご夫人も後を追うように亡くなったという。
三太郎峠は 三太郎翁の61歳の時にその名が地図に記されたという。
大正11年に母が生まれたずっと以前の話である。
母は4年前に亡くなったが、
そんな歴史があったなど思いもよらないから来歴など聞いたことは無い。
聞いて置けばよかったと思う。
奄美で生まれ育ち、高校生までいたのに、知らないことのなんと多いことかと今更に思う。
これからも、通ったことのない道を探し、
見たことのない風景を見つけるために、奄美に帰省し続けたいと思う。
わが故郷奄美大島は 北から南へ車でおよそ二時間の小さな島だ。
私の実家は
奄美空港から 国道58号線を南へ一時間半
最南端の瀬戸内町(せとうちちょう)にある。
子どものころは 実家から旧名瀬市まで、バスで二時間半
名瀬市から奄美空港まで一時間と
とても長い時間かかった。
しかもその国道たるや 七曲は当たり前
坂道をくねくね幾度も幾度も曲がりながら登って、
次は同じだけ幾度も幾度もくねくねと曲がりながら下る。
それが一つではないから厄介だった。
往き帰り必ずバス酔いをする有様だった。
でも、この頃はトンネルが十くらい彫られ、ほぼ真っ直ぐになり、
車酔いなど全くと言っても良いほど聞かなくなった。
しかし、それはそれで峠からの海を眺める美しい風景は見られない。
そこで、わが姉妹は帰省の度に旧道をドライブするのを趣味にしている。
ここの所 昔、三太郎茶屋と言うのがあったというが、どこにあるのだろうね
と言うのが興味の対象になっていた。
そこで、この三月、探してみることにした。
三太郎峠は 先のバス酔いの最たる峠だった。
この峠を越える旧道を行って、三太郎茶屋を探した。
三太郎茶屋跡の目印を見つけ曲がったものの、なかなか見つからず、
環境省(?)の職員に行き会い、
この先いけますか と聞いたら、「行けますが麓まではその車ではいけません。」と言う。
行かれるところまで行ったが見つからず、
仕方なく引き返したら、下の道にでるところで見つけた。
それがしたの写真である。
島から帰って、三太郎峠について調べてみた。
インターネットでも色々な人が書いているが、
その昔三太郎というお爺さんが住んで茶屋を開いたから三太郎峠と言うらしいことは分かった。
そして、その三太郎翁について書いたものがあることが分かった。
まず、柳田国男の『海南小記』である。
東村山市の図書館で借りて読んだ。
が、三太郎翁の来歴やなぜ茶屋を開いたのかはわからなかった。
もう一冊の書籍『奄美の森に生きた人』はそれを解き明かしているらしい。
が、出版社にはなかった。
鹿児島大学の図書館が所蔵してたが、貸し出しはだめであった。
インタネットを駆使し、手を尽くして探したら、
奄美のある店に在庫があり、4月3日、手に入れることが出来た。
ここ二日間で読んだ。
三太郎峠はその昔、海路しかなかった奄美に、
1890(明治20年代)年代、現奄美市住用町の人々が、住民の力で切り開いた道であったらしい。
県は請願に対し許可したが、お金は出さなかったそうだ。
道ができた後、その峠を 自ら切り開き茶畑やみかん畑やシイタケ栽培などをしながら
道行く人々の役に立つ休憩場所にしようと考えたのが、鹿児島川辺郡出身で農業指導員であった
畠中三太郎であったという。
当時は美しいみかん畑や茶畑があり、麓の少年たちのあこがれの地であったそうであるが、
今は、その気配もない。
今度行ったとき、もう一度よく見たいと思う。
しかし、茶屋ができてまもなく、バスも通る道路計画が持ち上がり、
1917年、三太郎茶屋をさけて開通した。
それでも、麓の人々は 飲み水五十六運んでやったり、薪を運んでやったり、
日用品を運んでやったり、峠の茶屋の夫婦を世話し続けていたそうだ。
三太郎翁は昭和七年三月、布団で冷たくなって夫人がおろおろしているところに
当時の郵便配達の少年が通りかかり、麓の人々に知らせ弔ったそうである。
そのご夫人も後を追うように亡くなったという。
三太郎峠は 三太郎翁の61歳の時にその名が地図に記されたという。
大正11年に母が生まれたずっと以前の話である。
母は4年前に亡くなったが、
そんな歴史があったなど思いもよらないから来歴など聞いたことは無い。
聞いて置けばよかったと思う。
奄美で生まれ育ち、高校生までいたのに、知らないことのなんと多いことかと今更に思う。
これからも、通ったことのない道を探し、
見たことのない風景を見つけるために、奄美に帰省し続けたいと思う。