自公政府、安倍首相は
今日サンフランシスコ講和条約発効60年を記念し
主権回復を祝う式典を強行
(沖縄県知事も開催中止を求めていた)
天皇も出席をした。
沖縄県では抗議の集会が行われた。
私は、今日、東村山市青葉町の9条を守る会から要請され、
奄美大島出身者として
奄美の復帰の取り組みについて話をさせていただいた。
もちろん当時のことを体験したわけではないから勉強した
その中で、奄美、沖縄、小笠原を切り離した経緯が時間軸でわかった
米軍が沖縄に上陸、その時から奄美も大空襲にさらされた
沖縄が占領された直後、奄美も米軍の占領状態に
1945年4月にはすでにアメリカは南西諸島の占領を宣言している。
そして、1946年2月2日
北緯30度以南を日本の管轄から除外するという
いわゆる二・二宣言なるものが発せらた
つまり、米軍が支配すると宣言したのである。
この要求に対し 当時の日本政府は何の異議も唱えないのである
それどころか 時の天皇は、1947年9月
「アメリカが沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望」
したのである。
そしてその期間を50年あるいはそれ以上としている。
これは1979年、復帰後沖縄から選出された
瀬長亀次郎代議士の追求で国会で明らかにされた
もちろん当時の奄美や沖縄の人々が知る由もないことである。
アメリカは、沖縄を中心とした占領政策を実行すべく
連合国としての全面講和ではなく
日米二国間での講和条約締結を進めるのである。
こうした準備が進む間も
わが奄美では、占領軍による経済対策などで
生活物資の値上がりなどくらしがますます困難になり、
食べるものがなくて
飢饉の時のために畑の畔に植えているソテツの幹を削り食べることまでしていたという
奄美ではこうした占領政策に抗して
祖国復帰運動が全島を挙げて行われる
小笠原、沖縄の返還もそうだが
これらの祖国復帰は
日本政府の努力によるものでは決してない
祖国復帰を願う
島々の住民の血のにじむような
いや文字通り、米軍との弾圧に対し
命を賭して闘い続けた
住民の力によるものである。
沖縄返還後当時の自民党総理大臣がノーベル平和賞を貰ったが
今も基地被害に苦しむ沖縄の人々の困難を生み出したのが
1972年の基地付き、核兵器付き返還であったことは間違いないことである。
ノーベル平和賞の質を疑うものである。
私の父親や伯父も復帰運動のさなか
米軍に逮捕されたという事実も聞かされていた。
これらの被害に対する日本国政府の償いはもちろん無い
1951年、日米両政府は
軍事占領が続く北緯29度線以南を
日本の領土から切り離し
米軍の信託統治とすることを第3条でうたった
サンフランシスコ講和条約を日米安保条約と共に締結した。
そして、その条約は1952年4月28日発効。
主権回復どころか、
日本の歴史的領土を売り渡した
主権を侵害された屈辱の日である。
それを祝う日とする安倍首相は、
本国と切り離され
新しい憲法も及ばない暮らしをさせられた奄美、沖縄、小笠原の
そして、未だにその支配に苦しむ沖縄の人々の苦しみを
全く理解しない、否 する必要があるとも思っていない
首相たる資質に欠ける人であると言わざるを得ない。
マスコミの祝賀式典の無批判での報道にも呆れかえっている。
青葉町の会では
沖縄出身のカーミーズが故郷沖縄への思いを込めて歌ってくれた
故郷の
戦場となり命を失わされたたくさんの同胞の
未だに基地被害に苦しむ人々への
思いがこもった歌声に涙が溢れそうになった。
今日サンフランシスコ講和条約発効60年を記念し
主権回復を祝う式典を強行
(沖縄県知事も開催中止を求めていた)
天皇も出席をした。
沖縄県では抗議の集会が行われた。
私は、今日、東村山市青葉町の9条を守る会から要請され、
奄美大島出身者として
奄美の復帰の取り組みについて話をさせていただいた。
もちろん当時のことを体験したわけではないから勉強した
その中で、奄美、沖縄、小笠原を切り離した経緯が時間軸でわかった
米軍が沖縄に上陸、その時から奄美も大空襲にさらされた
沖縄が占領された直後、奄美も米軍の占領状態に
1945年4月にはすでにアメリカは南西諸島の占領を宣言している。
そして、1946年2月2日
北緯30度以南を日本の管轄から除外するという
いわゆる二・二宣言なるものが発せらた
つまり、米軍が支配すると宣言したのである。
この要求に対し 当時の日本政府は何の異議も唱えないのである
それどころか 時の天皇は、1947年9月
「アメリカが沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望」
したのである。
そしてその期間を50年あるいはそれ以上としている。
これは1979年、復帰後沖縄から選出された
瀬長亀次郎代議士の追求で国会で明らかにされた
もちろん当時の奄美や沖縄の人々が知る由もないことである。
アメリカは、沖縄を中心とした占領政策を実行すべく
連合国としての全面講和ではなく
日米二国間での講和条約締結を進めるのである。
こうした準備が進む間も
わが奄美では、占領軍による経済対策などで
生活物資の値上がりなどくらしがますます困難になり、
食べるものがなくて
飢饉の時のために畑の畔に植えているソテツの幹を削り食べることまでしていたという
奄美ではこうした占領政策に抗して
祖国復帰運動が全島を挙げて行われる
小笠原、沖縄の返還もそうだが
これらの祖国復帰は
日本政府の努力によるものでは決してない
祖国復帰を願う
島々の住民の血のにじむような
いや文字通り、米軍との弾圧に対し
命を賭して闘い続けた
住民の力によるものである。
沖縄返還後当時の自民党総理大臣がノーベル平和賞を貰ったが
今も基地被害に苦しむ沖縄の人々の困難を生み出したのが
1972年の基地付き、核兵器付き返還であったことは間違いないことである。
ノーベル平和賞の質を疑うものである。
私の父親や伯父も復帰運動のさなか
米軍に逮捕されたという事実も聞かされていた。
これらの被害に対する日本国政府の償いはもちろん無い
1951年、日米両政府は
軍事占領が続く北緯29度線以南を
日本の領土から切り離し
米軍の信託統治とすることを第3条でうたった
サンフランシスコ講和条約を日米安保条約と共に締結した。
そして、その条約は1952年4月28日発効。
主権回復どころか、
日本の歴史的領土を売り渡した
主権を侵害された屈辱の日である。
それを祝う日とする安倍首相は、
本国と切り離され
新しい憲法も及ばない暮らしをさせられた奄美、沖縄、小笠原の
そして、未だにその支配に苦しむ沖縄の人々の苦しみを
全く理解しない、否 する必要があるとも思っていない
首相たる資質に欠ける人であると言わざるを得ない。
マスコミの祝賀式典の無批判での報道にも呆れかえっている。
青葉町の会では
沖縄出身のカーミーズが故郷沖縄への思いを込めて歌ってくれた
故郷の
戦場となり命を失わされたたくさんの同胞の
未だに基地被害に苦しむ人々への
思いがこもった歌声に涙が溢れそうになった。