ここには東村山市の全生園と同じように、戦前戦後、歴代政府の誤った隔離政策で差別に苦しみ続けているハンセン病を発症し隔離され、回復してもなお『収容』され続けた人々が生活をしておられます。
谺雄二(こだまゆうじ)さんにお話を伺い、施設の見学をさせていただきました。
らい予防法が廃止され、
人権が回復し、問題がなくなったかのようなそんな感覚が私たちの中にあります。
しかし、そんな甘い考えが打ち砕かれた、今回の訪問でした。
谺さんは、東京北区で10人兄弟の末っ子として生を受け、
出産で体が弱っていたお母さんが感染、谺さんも6歳のときに発症、
7歳からお母さんと共に多摩全生園に隔離されたそうです。
その後、16~17歳時、栗生楽泉園に移ったそうですが、お母さんは敗戦後まもなく亡くなったといっておられました。
戦前は国から「お前らは日の丸にシミをつけている」と隔離され、
民族浄化政策の下、命をつなぐ結婚も許されず、子どもを持つことも決して許されませんでした。
戦後の憲法下でも、この差別的な隔離政策は継続されました。
戦後の憲法下、優生保護法の名前で、それまでは密かに行われた断種・堕胎が
法律が認めたものとして、行われるようになったのです。
また、包帯やガーゼも繰り返し洗濯して使うための仕事を患者がしていたこと
その際、長靴は必需品(患者は足などに包帯を巻いているがそれを濡らさないタメ)で、穴が開いているのを取り替えてもらえず、
これでは仕事が出来ないと休んだところ
患者達を煽ったと重監房に隔離されたなど、
入所者の処遇改善を求めることが「アカ」とされ、重監房送りになったこと、
重監房は高い壁に囲まれた中に4畳半ほどの部屋が8つあり、
隣の部屋とも隔絶され、寒い草津の冬も暖房ももちろんなく、
明り取りの窓はガラスもなく外気が入り、
二十数名が命を奪われたと、基礎が残る跡地で説明を受けました。
今、その跡地に、重監房の復元の計画があるそうです。
様々な差別に苦しめられ、生きてきたその人生に、ただただうなだれて聞き入るだけ
言葉に言い表せない、怒りとも、悲しみとも、言いようの無い気持ちにさいなまれました。
でも、らい予防法は廃止され、国も、厚生労働大臣も謝った
コレで、人権が回復されたか、良かったか
とんでもない と 谺さんは言いました。
今でも差別はある。
らい予防法は廃止されたが、
世界に類を見ない徹底した隔離政策、民族浄化の隔離政策のなか
いまだに、入所者が故郷に帰るのを許さない現実がある。
戸籍も抹消され、帰ればそれが世間に改めて明らかになることを厭う現実があると、
法律を廃止しただけで国が責任を果たしたとは言えない。
私たちは施設を出て行くわけにはいかない。
施設を地域に開いて、介護施設、医療機関として、地域の人々に使って貰って、それで初めて社会復帰ができる
私は、それを勝ち取りたい
草津は、温泉がとてもよく、アトピーにも良いといわれている
この施設の特性を活かしたいと、語っておられました。
谺さんは、ある友人との別れを話してくれました。
入院をされていて、いよいよという時に見舞にいったら
「谺さんか・・・、もう帰ろうよ・・・」という
どこに帰ろうというのかついに聞けずに友人は亡くなったそうです。
私は、ぼろぼろ 涙を流していました。
どんなに、お母さんに、お父さんに、兄弟に会いたかっただろう
もしかして、すでに故人になっておられるかもしれないが、それでも
合いたい気持ちを、表すことも許されずに、
ついに差別されたまま命を失う人々、
その無念の思いは想像を絶します。
谺さんが、療養所に「居ながらにして社会復帰を果たしたい」
と切実に願い、そのために75歳の今なお、電動車椅子での生活をしつつ
なおその体で、100万人署名に取り組む意味がわかりました。
写真は、大和民族の浄化のために生まれることが許されなかった堕胎児の碑です。
その子どもたちは、つい最近まで、ホルマリン液の中で、標本になっていました。
一体誰の子として生まれる予定であったのか、ほとんど記録が無いまま放置されてきたのです。
碑には 命カエシテ と刻まれ、
後ろの碑文は、堕胎児の碑 と刻まれていました。
厚生労働省は、胎児の碑 としたかったそうですが、栗生楽泉園の人々のそれを許さず、
堕胎児の碑 となったのです
これらの政策のありようのどこに、国の謝罪のお気持ちがみえるでしょうか
人権とは、絶えず、当事者の何者にも負けない努力で勝ち取っていく物であると、
今回の旅と、谺さんとの出会いで痛感しました。
言い尽くせない思いのままに、