きつけ塾 いちき

「きもの」の袖に手を通す時に、「ときめき」を感じる日本の女性たち。
この「胸の高まり」は、いったい何なのでしょうか。

「附下と留袖の着せ付け」を基本から…

2013-07-05 01:24:52 | 着せ付け
自分のお教室に生かすために…
ボディーに黒留袖の着せ付けをしているのはさん。
日頃の彼女は、お客さまも多い「素敵な喫茶店」のオーナー。
仕事の他には「きもの好き」が集まり、「着付け教室」もされています。
「生徒さんにもっと多くのことを教えてあげるために、着付けをもっと深く学びたい…」と「きつけ塾いちき」にお越しになり、特に着せ付けを中心に学ばれています。何と向学心のある方でしょうか。
担当は木下室長で、笑いの絶えない教室のようです。
さんは、「本当に楽しくお勉強させて頂いています」とのこと。

これまで「きつけ塾いちき」は、お望みの着付け技術を、お好きな時に提供してまいりました。
ですから、他の着付け教室の先生方もお勉強にお越し頂いているのです。
学ぶという事には、「時間や年令・着付け教室の違い」など関係ありませんからね。
先生、がんばって下さい。今後もみんなで応援させて頂きます。





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西郷南洲翁宅地跡…今は、共研公園

2013-07-03 00:33:44 | 生活情報
「きつけ塾いちき」の鹿児島のお稽古場の前には、夜明けから賑わいを見せている朝市がたっていて、すぐ近くには、緑の木々や芝生におおわれた「共研公園」がある。
新幹線の南の終点「鹿児島中央駅」の真ん前の公園で、早朝から市民の散歩コースや憩いの場にもなっている。
そんな「公園の歴史」をご紹介しましょう。


波瀾万丈の時代・西郷隆盛の宅地跡…共研公園
明治維新に大きな役割を果たした「西郷隆盛」。
27才の時に、祖父と両親の3人を失った西郷は、その2年後の安政2年(1855年)、下加冶屋町を売り払い、この上之園町へ引っ越してきた。
一説によると、借金を返済するために移ってきたとも言われる。
それから明治2年までの14年間、西郷にとって、まさに波瀾万丈の時間が押し寄せてくるわけです。
近衛家から保護を依頼された僧月照との入水自殺もこの時期です。
ですからこの宅地跡(共研公園)は、明治という時代の幕を開ける、西郷の根城ともいえます。


「共研公園」

西郷南洲翁の宅地跡の碑(左)と、鹿児島市立女子興業学校跡地の門碑(右)

鹿児島市立女子興業学校跡地…共研公園
明治44年、易居町から上之園町へ移転してきたのは、鹿児島市立興業学校(現在の鹿児島女子高等学校)でした。
多くの人材を生み出した同校も、昭和22年6月17日の、鹿児島大空襲によって焼失…37年の学び舎の幕を閉じることになった。

共研という名前の由来
400年間の、薩摩の「郷中教育(ごちゅうきょういく)」と言われる、「青少年教育」を進めるために、「共に研鑽をつむ」として、明治12年「共研舎」を16か所に設立。
人材の育成に役割を果たすことになります。
その名を冠した「共研公園」は、昭和26年4月1日開設、多くの市民の憩いの場所として現在に至っています。



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E先生の花嫁着付け…真剣勝負の甲斐があって

2013-07-01 11:44:58 | 花嫁の着付け
きれいに着付けることが出来ました。
ちょうど一か月前、ここが美容師の勝負どころ…花嫁の着付け で紹介した、美容師のE先生が、その後学院にお越しになり、「支障なくきれいに着付けられた」とのご報告をいただきました。
きれいな写真もお持ち頂いたので、お見せしたいのですが、花嫁さんの顔を出せないので着付けている後ろ姿のみご紹介します。
「きつけ塾いちき」の花嫁コースを学ばれるE先生の前向きの姿勢が、「ご成婚の現場での真剣勝負」を大成功に導いたものだと思います。
技術を自分のものにするという事は、ほんの少しの勇気なのだと思います。
E先生、「花嫁着付け師」の船出、おめでとうございます。


黒いシャツがE先生、白いシャツは助手の方です。



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