内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「すべて」と「全体」との論理的差異(2)― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(7)

2015-07-03 08:00:39 | 読游摘録

 私たちが « omnis » の意味で全体性について語るとき、その全体性は、述語の適用範囲がある全体を覆うということである。つまり、述語に示されたある属性が、すべての場合にあてはまるのか、あるいはいくつかの場合にしかあてはまらないかということがそこでの問題である。
 例えば、夕食会に複数の友人たちを招いたとしよう。その場合、「みんな到着した?」(« Tout le monde est-il arrivé ? »)と聞くことは、「招待者全員が到着したか」(« Tous les invités sont-ils arrivés ? »)と聞いていることにほかならない。このときの全体(性)は、要素の集合、複数の個体からなるクラスのことである。それだけでは、まだ一つの現実という意味での全体(性)が形成されたわけではない。つまり、すべての招待客が到着し、夕食会を始めることができる、と言うとき、ひとつの「全体(性)」が到着したのではなく、その日の招待客リストに載っている人たち全員がそれぞれに到着したのである。招待客リストには一人また一人とそれぞれの名前が付け加えられていったわけだが、そのことはそれら招待客たちの間に、招待に応じたということ以外の繋がりを作り出すわけではない。
 では、この招待客たちが、一つの「全体」として到着したと言うことができるようになるのは、どのような場合であろうか。その「全体」が「部分」的にあるいは「全体」として到着したと言えるのはどのような場合であろうか。言い換えれば、上の例を « omnis » の例から « totus » の例に変更するには、どのような条件が与えられればいいのか。
 上記の夕食会への招待が招待客たちにとっても招く側にとっても習慣的となり、一種の儀式と化した場合を考えてみよう。すると、問題の存在論的次元に変化が起こる。招待客全員が一つの団体を形成するようになる。この団体は、団体として、習慣や内規や伝統を持つことができるようになる。そうなると、その団体は、団体として、自らを更新したり、未来に向かって計画を立てたりできるようにもなる。その団体の構成員に欠員が出た場合は、それを補充し、団体としての全体性を維持することもできる。これらの条件を備えたとき、その団体は、その構成員各個のアイデンティティとは判明に区別される、団体としての、つまり « totus » としてのアイデンティティを有するようになる。
 社会学的には、この « omnis » から « totus » への論理的転換点に注意することがきわめて重要になってくる。つまり、ある属性についてのすべての場合を語ること(例えば、「すべてのイギリス人は赤毛である」と言うとき、この言明が仮に真であったとしても、それだけではイギリス人が一つの現実的な全体(性)を形成するには不十分であり、それはまだたんなる集合にとどまる)と、一つの全体を形成するグループについて語ることとは、はっきりと区別されなくてはならない。
 部分と全体の関係(« totus »)と、ある属性が一部の場合にしか当てはまらないこととすべての場合にあてはまることとの関係(« omnis »)とは、まったく別のことなのである。社会学である「全体性」を問題にするとき、この二つの関係のいずれを問題にしているのか、まずはっきりさせなくてはならない。そうしないと、いわゆるカテゴリー・ミステイクに起因する多くの擬似問題が発生することになる。