1992年のポンピドー・センターでのシンポジウムの際にルイ・デュモンが残念だと言っていたことは、哲学者たちがあまり「全体性」(« totalité »)という概念に関心を示そうとしないということだった。
ところが、種々の集団的個体とは、それぞれ一つの全体性にほかならない。現代哲学は、全体性について何か言うことができなくなってしまっている。現代哲学は、何か生命体あるいは有機体のようなものを考えうる諸条件を措定したカントの『判断力批判』より遠くには、もはや進めなくなっているのだ。全体性、つまりカントにとっては諸部分間の内的目的性関係は、生命体を出発点として考えられている。ところが、この有機体モデルは、一つの社会を一つの全体性としているものを考察しようとする社会学者には相応しくない。人間のグループを一つの有機体として考えることはできないからである。この暗喩は、逆の極端に位置する社会学的原子論、つまり、社会とは諸々の個体とその相互作用でしかないという考え方の誤りを修正するには十分ではない。
現代哲学に対してこのような不満を持っていたルイ・デュモンの求めに応じる形で、デコンブ氏は、哲学者として、全体性をその形式において構成しているものについての私たちの考えを明確化しようと試みる。
そこで氏がまず提案するのは、中世の論理学者たちが立てた « omnis » と « totus » との区別に立ち戻ることである。現実的な全体性という問題を立ち入って考察するためには、この論理的区別を立てることが必要だと考えてのことである。この二つのラテン語は、どちらもフランス語では « tout » になってしまうが、日本語では、一応、前者を「すべて」、後者を「全体」と訳し分けることができるだろう。しかし、デコンブ氏が両者の違いを明示するために挙げている例を見れば、誤解の余地なくその違いを理解できるので、その例を見ていこう。
« Omnis » の意味は、例えば、「すべての人間は死ぬ」(« Tout homme est mortel »)というような一般命題に典型的に見られる。どのような存在であれ、それが人間であると判断されれば、その存在は死すべき存在で、そこに例外はない。
それに対して、« totus » の用法はまったく違う。なぜなら、この語の使用とともに問題になるのは、あるものがある一定の性質・性格・特徴を持っているのは、その全体においてなのか、あるいはその部分においてのみなのか、ということだからである。例えば、私が海水浴をしているとしよう。そこで、「私はすっかり水の中なのか」(« je suis tout entier dans l’eau »)、あるいは足だけ海水に浸しているのか、と問うとき、そこで問題になっているのは、« omnis » ではなく、« totus » なのだ。
つまり、全体と部分との関係の論理が « totus » の論理で、普遍と特殊との関係の論理が « omnis » の論理なのである。
一見しただけでは、この両者の論理的差異が社会学に何をもたらすのかよく解らないかも知れない。しかし、その説明に入る前にまず知っておくべきことは、この論理的差異は、なにか微妙な表現の差異などというものではなく、ウィトゲンシュタインが『青色本』で言っていたように、重大な差異なのであって、ひとたびそれが差異として認識されたら、もはやそれを見損なうことなどありえない。言い換えれば、フランス語の « tout » が « omnis » と « totus » とのどちらの訳でもあり得ると知った以上は、その都度どちらか選ばなければならず、二つの意味の間で非決定の状態に立ち戻ることはもはや許されず、一方でありかつ他方である、あるいは、幾分か両方である、などという言い方はもはやできない。両者の間の混乱はもやはありえないのである。