デコンブ氏に対して、対談相手から次のような質問と反論が提示され、それに答えるところから、« Les individus collectifs »(「集団的個体」)と題された章の後半に入る。それとともに、同章の冒頭で提起された二つの問題のうちの二番目の問題、同一性の問題の検討が始まる。
個体主義者たちは、問題は、全体性の存在ではなくて、それが同定される仕方、例えば、誰がフランス人で、誰がそうでないかを決定する仕方が問題なのだと反論してくるだろう。何の名において、これこれの全体性を規定するのか。これは正当性・合法性の問題であって、存在論の問題ではない。同好の士の集まりである団体の場合、その団体が入会意志を持った人たちだけから構成されているという限定によって、問題が単純化されてしまっている。しかし、このような単純化された例を離れれば、集団的同一性の問題は、はるかに複雑な問題であり、一見、単なる論理的分析では解決不能に思われる。
この質問と反論に答えることは、デコンブ氏によれば、「アイデンティティ」(« identité »)という言葉が二十世紀後半になって初めて持つようになった新しい意味、つまり、「同一性の決定に関わる諸々の反応の源」という意味を巡る問題を検討することに帰着する。どのようにして、グループの存在論的な意味での同一性から、社会心理学的な意味での集団的同一性へと意味の移行が起こったのか。この後者の同一性の問題は、ある社会や共同体への帰属意識や「民族」としての自律あるいは独立の承認のための闘争によって具体的に顕在化させられるが、それはどのような問題背景や文脈においてなのか。
今日、「アイデンティティ」という語には、二つの用法がある。この用法の二元性は、きわめて注目に値する。なぜなら、そこに非常に大きな問題が孕まれているからである。
社会心理学の本の中には、この意味の二元性を意味の歴史的変化として説明しようとするものがある。それによると、かつては、哲学者や論理学者によって規定されていた意味、つまり、「同定されたもの」(« A est identique à B » がその基礎定式)という意味で使われていたが、今では新しい意味、つまり、国民的あるいは国家的アイデンティティ、宗教的アイデンティティ、職業的アイデンティティ、性的アイデンティティ等々を語らせる意味で使われている、というわけである。
しかし、これは明らかに誤った方向へと私たちを導く説明である、とデコンブ氏は言う。なぜなら、昔も今も、最も重要な意味、そこから議論を出発させるべき意味は、論理的な意味だからである。「アイデンティティ」の論理的意味は、それがもはや使われなくなったという理由で「旧い」のではまったくない。この論理的意味は、言語活動の発生と同じほど昔からあるという意味で「古い」のである。というのも、それがいかに単純で大雑把な言語であれ、参照行為がまったくできない言語、つまり、今自分が何について話しているのか、より具体的に例を挙げれば、今私が話しているのは、ジャックのことであり、ジャン=リュックのことではないと示すことができないような言語を想像することができるだろうか。