内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「すべて」と「全体」との論理的差異(6)― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(11)

2015-07-07 06:14:55 | 読游摘録

 もう一度問おう。私たちは、唯名論者が「原則として」可能だという、あらゆる全体性を排除し、すべてを諸個体あるいはその単なる集合に還元する存在論的還元をどこまでも支持することができるだろうか。
 ここで問われなければならないのは、私たちの「存在論的関与」である。つまり、私は全体性に賛成か反対か、ではなくて、私の言うことは全体性への参照・考慮を排除することができるのか、ということである。言い換えれば、何らかの社会的全体性に言及するたびに、それらの言及をすべてそのとき問題になっている社会的全体性を構成している諸個体のリストに置き換えることができるのか、ということである。もしできるのなら、唯名論者は己の立場から証明すべきことを証明したことになる。
 唯名論者が証明したいことは、日常言語で、「議会は投票した」とか「その団体は集まった」とか言うとき、実際には、議会を構成する議員たちが投票したのであり、その団体のメンバーが集まったのである、ということである。唯名論者は、いわゆる集合名詞 ― 議会、フランス等 ― を、分析対象となった社会的事実を構成している集団的行動をとったすべての個人の固有名詞のリストによって置き換えうると証明したいのである。それができれば唯名論者の「勝ち」である。
 ここに形而上学的分析の重要な論点がある。論証の結果が私たちを不安にさせるものか、勇気づけるものかどうかがここでの問題なのではない。論理的な問いを立てるべきときなのであって、道徳的な説教や政治的な扇動的演説をしている場合ではない。もし論証の結果として、上記のような唯名論的還元はできないとなれば、全体性という概念は正当なものとして認められなければならない。そうなると、問題は、全体性概念の濫用と不当な使用を告発することになる。
 ヘラクレイトスの有名な言葉にあるように、河は常に変化しており、流れる水の絶えざる更新である。それゆえ、私たちがある河、同じ河を目の前にしているとき、私たちはなにか新しいもの、つまり新しい水の前に立っている。
 この意味で、一つの都市、地方、国、団体、サッカー・クラブは、いわば河のようなものである。それらが時間の中で存在し続けるとすれば、そこに世代交代がなければならず、この世代交代を続けられないグループは衰退し、ついには消滅する。
 さて、この河の水が流れるという事実は、私たちにその河を名づけることを妨げるだろうか。私が同じ河について話しているのか、他のもう一つの河について話しているのか、私の話が曖昧になることがあるだろうか。
 例えば、イル・ド・フランスのいずこかを散策していて、この河はセーヌかマルヌかと自問するとしよう。そのときの私の問題は、今自分が目の前にしているこの河が、人が「セーヌ」と呼ぶ河か「マルヌ」と呼ぶ河かを知ることである。これは誰でもわかることである。
 このとき、水が流れているという事実は、当の同一性の問題を何ら複雑化するものではない。私が「この河はセーヌだ」と言うとき、私が言いたいのは、「今眼の前を流れている水は、人が過去にこの河をセーヌと名づけたときにすでにそこにあった水だ」ということではない。もし今日の水が昨日の水と同じだったら、私が眼前しているものは、もはやセーヌではない。それは湖であり、河ではない。それがセーヌであるのは、その水が流れるからであり、そのことがそれを一つの河たらしめている。その流れ方がその河を昔から「セーヌ」と呼ばれてきた河と同じ河にしているのである。
 以上の河についての同一性の規定を、最も一般的な意味での集団的存在に適用することができる。アリストテレスがすでに「ポリス」(都市国家)を河に例えることを提案している。それは、その存在様態、一つの集団的実体の存在論を構想するためのモデルを得るためである。一つの川が時間の中でその流れから己の同一性を得ている流体であるのと同じように、一つの都市とは、時間の中でその諸々の法律や習慣から己の同一性を得ている世代の流れ・交代・更新である。
 ここまでの議論をもし唯名論者が否定するとすれば、どのような集団的存在についてもその歴史を語ることはできなくなる。唯名論者によれば、セーヌについては、そこをこれまでに流れた水の総体についてその歴史が語りうるだけで、「セーヌの歴史」というのはその総称に過ぎない。同様に、「パリの歴史」とは、そこに生きたすべての人たちの伝記の集成であって、それ以上でもそれ以外でもないということになる。
 ここまで論じてきたところで、デコンブ氏は、方法論的個体主義の論理的・形而上学的破綻を認めざるをえないと結論づける。