昨日まで見てきた、アテナイ市の同一性に関する存在論的な問いは、実のところ、実践的な射程を持っている。それは次のような端的な問いの形をとって提示される ― 「負債は誰が払わなくてはならないのか」。
ローマ法を専門とする法学者・歴史学者の Yan Thomas は、その著書 Les Opérations du droit, Gallimard/Seuil, coll. « Hautes Études », 2011 の中で、中世期の負債に関する事例を詳細に検討している。そこから次のようなきわめて重要な帰結が引き出されうる。
それは、単なるばらばらな個人の集合に過ぎない « multitudo » として考えられている共同体の成員に負債を支払わせることはできない、ということである。負債を支払うことができるのは、西洋中世の言葉つまりラテン語で言えば、« universitas » だけなのである。この « universitas » が今日の「社会的全体性」に相当する。これは決定的に重要な点である。
たとえ唯名論を支持する法律家であってさえ、つまり原理的個体主義者を標榜する法律家であってさえ、「社会的全体性」という「虚構」を導入しないことには、社会的グループ間に債務契約という法的関係を締結させることはできない。
上記の問題は、論理的分析が実践的諸問題の解決に不可欠であることを示す一つの際立った例である。