内的自己対話-川の畔のささめごと

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自己命名可能性が集団に「人格」を与える ― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(26)

2015-07-23 00:00:00 | 読游摘録

 一個の「人格」として認証されることを要求するグループは、それとして尊重される権利があると考える。それらのグループは、自分たちが「人格」としての尊厳を持っていると考えており、倫理的に自分たちの社会的立場が保証され、それに見合った敬意を払われることに特に重きを置く。それらのグループが具えているこれらの「人格」としての性格を、今日、心理学者や社会学者たちの言う意味において、「集団的同一性」と呼ぶ。
 「人格」を持ったグループは、その同一性の危機を経験することがある。その危機を理解するために、まず、私が同一性の危機を経験する場合を考えてみよう。その場合、私の社会的身分が何であるのか言えなくなる。その身分を回復し、認証を求めるための戦いとは、私の社会的身分がどのようなものであるか私は知っていると信じ、私を取り巻く他者たちに自分の主張を認めさせようとすることである。同じようなことがグループの同一性が危機に曝されたときにも観察されるのである。
 集団的同一性の言語は、論理的言語との紐帯を断ち切ることはできない。なぜなら、「人格」としてのグループの心理を発展させることができるためには、それらのグループを現実的な全体性として、この世界で実在性を持つ当体として、指し示すことができなくてはならないからである。言い換えれば、それらのグループが命名され得るかぎりにおいて、とりわけ自ら命名することができるかぎりにおいて、「人格」としての心理をそれらのグループは発展させることができるのである。