内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

アテネの市民たちとは誰か ― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(20)

2015-07-17 00:00:00 | 読游摘録

 社会存在論において、原理的個体主義は維持し得ない以上、種々の社会的全体性を参照項として導入せざるを得ない。そららに名を与えなくてはならない。
 例えば、アリストテレスは、人が「アテネ」と呼ぶものは何なのかと自問する。それは領地であろうか、住民であろうか、人々の集合であろうか、政治体制であろうか。
名を与えるとき、私たちは同時に、その名の使用規則を定める「同一性の基準」(« critère d’identité »)を規定しなくてはならない。
 今日のアテネ市は、スパルタ市に借金があった古代のアテナイ市と同じ市であろうか。それとも、政治体制の変化(独裁制から民主制への移行)は、その結果として、今日のアテネ市を古代のアテナイ市と現実的に異なったものとしているのだろうか。
 もしアテネ人たちの市とは、今日生きているアテネ市民たちのみからなる市であるならば、どうしてとうの昔に死んでいるアテナイ人たちの負債を彼らが負わなくてはならないことがあろうか。このアテネ市とは今日只今の政治体制のことであるなら、なぜ旧体制の負債を今日のアテネ市が負わなくてはならないのか。

(昨日16日付記事の投稿時間は日本時間の午前2時半過ぎになっているが、投稿したのはシャルル・ド・ゴール空港で出発便を待ちながら、現地時間で15日午後8時半過ぎのことであった。16日夕方に実家に到着した。今日から来月18日までの記事は日本発になる。)