内的自己対話-川の畔のささめごと

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固有の感情を持ちうる「人格」としての集団的存在 ― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(25)

2015-07-22 00:00:00 | 読游摘録

 論理的同一性基準に照らして純粋に論理的に規定できる「人格」と社会学的意味での行動の「主体」としての「人格」との間に位置するのが、法的な意味での意思を持った「人格」である。
 この後者から社会学的意味での「人格」への移行がどのように起こるのか、見てみよう。
 法律家は、「誰」が負債を負っているのか、と問う。それは、債務契約に署名できる法的に実体があると認められたものに負債を負わせる方法を規定しなければならないからである。債務契約締結には、返済履行責任能力のある法的「人格」が必要なのである。簡単にいえば、契約書の内容を理解した上で、それにサインすることができる「人格」が必要なのである。
 ある集団が負う債務が問題となるとき、それを負うのは、個々ばらばらな人たちの集まり、あるいは、それぞれ個別に考えられた成員ではない。例えば、個々のフランシスコ会修道士の資格においてではなく、フランシスコ会の名において、あるいは、パリ市内のここかしこの住人たちとしてではなく、パリ市の名において、集団的意志を表明できる「人格」が債務契約締結には必要なのである。
 ところがそうなると、事は純粋に法的な契約の話では済まなくなる。契約書にサインした集団に、それ固有の心理的構造つまり様々な感情を持ちうる「人格」が発生する。
 それは、「己」の意志や感情を表明するグループという経験的事実に私たちは立ち会うことになる、ということである。それらのグループは、例えば、「私たちはある外国勢力によって屈辱的な扱いを受けた」、「私たちは感情を傷つけられた」「私たちは名誉の回復を求める」「私たちは恥辱が拭われることを欲する」等々、「人格」として一人称(複数)でその感情を表明することができる。
 それらのグループは、以後、一個の「人格」として行動する。つまり、グループの名において署名することによって、名誉と承認を求めるシステムの中で、同定可能な或る「身分」を己自身に与えたのである。