内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

社会に対する二つの観点 ― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(12)

2015-07-08 01:12:23 | 読游摘録

 「社会」や「国民」といった固定的で全体化傾向を持っている概念に反対して複数性や多数性を擁護する論者たちは、必ずや方法的個体主義者なのであろうか。むしろ彼らは新しいタイプの全体論者(holiste)ではないのか。彼らが言いたいのは、自分たちが全体性を望むとすれば、それは動的なものであり、複数であり、多数であるという条件をそれらが備えているときである、ということではないのか。
 これらの問いに対して、デコンブ氏は、一つの集団とみなされる社会的実在について二つの観点を区別することによって答えようとする。第一の観点は、その一つの社会的実在を「複数の個人」(multitudo)として見る観点である。第二の観点は、当事者間に一定の制度的な相互関係が成り立っている諸個人(populus)として見る観点である。
 例えば、ある大学をその中に集まっている或る一定数の個体とのみ考えるのが第一の観点に対応し、それら個体には一定の規則に従って相異なった役割・身分があり、それらに基づいた相互関係がそれら個体間にあると見なすのが第二の観点に対応する。前者の場合、個体間差異は無視され、単に数のみが問題となるのに対して、後者の場合、だれでも自由にその集団に参加できるわけではなく、予め定められた基準に適った者しかその成員となることはできない。
 前者の観点に立つかぎり、或る一定数の同じ個体が構成する集団は、常に同一の集団であり、そこに何らの区別を持ち込むことはできない。この観点の不都合は、次のような場合を考えてみればすぐにわかる。ある病院の外科医たちのチームが同時に自分たちで作った野球チームのメンバーだったとしよう。前者の観点では、この二つのチームを区別することができない。なぜなら、その成員がまったく同一だからである。しかし、後者の観点に立てば、外科医としての仕事と野球チームでのプレイとはまったく別々のことであるから、外科医のチームと彼らの野球チームとは、当然のこととして、二つの社会的存在として区別されなくてはならない。
 このような卑近な例だと幼稚で馬鹿げた話のように見えるが、問題が政治的場面に移されると、事はそれほど簡単ではなくなる。
 すべての労働者がそれまでのあらゆる桎梏から解放されて自由に労働できるようになった「理想社会」を想像してみよう。そこにあるのはそれぞれにまったく平等で自由な個人の集合であり、そのような集合は « multitudo » 概念に対応する。そのような人の集まりがまずあって、その後に初めて、それぞれの個人が自由意志に基づいて必要に応じて他者と契約を結ぶ。このような社会では、固定化された拘束的な社会制度の形をもったものは一切排除されなくてはならない。
 原理的個体主義者たちは、複数の個人の間に予め規定され確立されたものは何もあってはならないとの立場に立つから、あらゆる既存の社会制度は、彼らにとって、個人拘束の様々な形態でしかない。この立場に立つかぎり、「共に生きる」ための規則を互いの交渉によって決めるのは、当事者である多数の個人(multitudo)自身だということになる。
ところが、このような極端な個体主義(デコンブ氏は、それを « hyper-individualisme »(「超個体主義」)と名づける)の信奉者たちにとっては拘束の諸形態でしかないものも、社会生活についての正統的な社会学的観点からすれば、まったく反対に、私たちの人間的生活を可能にする形態ということになる。
 このことは言語を例に取ってみるとよくわかる。上記の « multitudo » の立場からすれば、多数の言語があることは好ましいことではない。諸個人間の平等で自由な交渉の障害になるからだ。私たちは、いつも、自分たちの都合に合わせて作ったのではない、すでに使われているある言語を、こちらからの何の同意もなしに強制的押し付けられる。その意味で、言語があるという事実そのものが、一方的な力による強制という点で、ファシズムの始まりだとさえ言えよう。
 しかし、正統的な言語社会学の立場に立てば、言語こそ人間を人間たらしめるコミュニケーションを可能にしているのだという至極まっとうな結論に落ち着く。これを一般化して言えば、自分で選んだわけではない既存の諸条件を受動的に受け入れてはじめて、社会生活は可能になる、ということになる。