一昨日のテーマであった「アイデンティティ」の「古い」意味 ― その論理的意味 ― の話に戻ろう。
「アイデンティティ」の論理的概念は、私たちはこれを絶えず使っている(ここで私からの注釈だが、「概念を使う」という言い方にちょっと違和感を覚えられる方もいらっしゃるかもしれない。この「概念」という問題については、いずれ Jocelyn Benoist, Concepts. Introduction à l’analyse, 1re édition, Cerf, coll. « Passages », 2010 ; Concepts. Une introduction à la philosophie, 2ème édition, Flammarion, coll. « Champs Essais », 2013 を取り上げる際に立ち戻ることにして、ここではデコンブ氏の使用法にそのまま従う)。しかし、必ずしも「アイデンティティ」という言葉を使うことによってとは限らない。私たちは、「同定操作」(« opération d’identification »)を行なう度にこの概念を使っているのである。
7月7日の記事で言及したセーヌ川の例に立ち戻ってみよう。今、私たちの目の前に川が流れているとしよう。これはセーヌ川だろうか。この問いに「はい」と答えるならば、私たちは同一性概念をそこで「使っている」ことになる。なぜなら、そこで私たちは、川の概念を「個体化」(individuer)しているからである。つまり、目の前を流れる川は、ある一つの不特定の川(un fleuve)ではなくて、特定の川(le fleuve particulier)で、その名が「セーヌ」であることを示しているからである。これが同一性を巡る議論の出発点になければならない意味だとデコンブ氏は言う。