内的自己対話-川の畔のささめごと

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「すべて」と「全体」との論理的差異(5)― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(10)

2015-07-06 06:17:29 | 読游摘録

 単なる集合ではない一つの全体をそれとして認めることができるのは、どのようにしてなのか。
 先に挙げた例、最初は夕食会の招待客たちという単なる集合だった人の集まりが定期的に集まる団体になり、メンバーに入れ替わりがあっても同じ団体として維持されるようになった場合に立ち戻って考えてみよう。
 このような卑近な例から始めるのは、いきなり「国民」などという大きなテーマから始めてしまうと、それに付随する様々な問題に振り回されて、« omnis » と « totus » との論理的差異、前者から後者への存在論的身分の変化という哲学的問題の核心を見損なう恐れがあるからである。
 もし方法的個体主義者が論理的に終始一貫しているとすれば、上記の例の団体のメンバーが一人替る度に、一つのグループから別の一つの新しいグループに変わったと考えなければならない。なぜなら、個体主義に徹するかぎり、すべての「団体」はそれを構成するメンバーに還元されるのであるから、そのメンバーに入れ替えがあれば、もやは入れ替え以前と以後とで同一性を維持することはできないからである。
 一見他愛もない例に思われるが、そこに含まれている問題は、法的には、法人の同一性とその財産所有権という問題と不可分なのである。因みに、フランス語の法律用語では、「個人」が « personne physique »、「法人」が « personne morale » である。
 もし個体主義者があくまでその立場に固執するならば、つまり、ある集団の同一性はその集団を構成する成員のリストの同一性に還元されると主張するかぎり、ある団体の歴史を語ることを断念しなくてはならない。それは上記の例の場合だけでなく、宗教団体その他の大きな集団や国家についても同様である。なぜなら、いずれの場合も、メンバーに変更がある度に、新しいグループが発生するからである。
 私たちが唯名論者として一貫しているためには、ひとつの団体にはその構成員のリスト以上ものは何もないと言わざるを得ない。ただそれらの構成メンバーがおり、一緒に何かしたいという気持ちが共有されているだけで、そこに歴史は発生しない。
 このようなラディカルな個体主義的・唯名論的立場をいきなり政治的問題に適用し、この立場による徹底した還元論的存在論は、抑圧的か、あるいは逆に解放的か、と問うことには、慎重でなくてはならない。なぜなら、「この世界には諸個人が存在するだけで、それ以外には何も存在しない」と主張することで危険な全体性に反対する言説は、そっくりそのまま、あらゆる連帯・繋がり・絆を解体してしまう個体主義を、まさにその点において批判するためにも用いることができるからだ。言い換えれば、全体主義に徹底して反対・抵抗するためには、個体主義者であるだけでは不十分であるばかりか、その個体主義そのものが全体性に対する反対・抵抗の拠点を掘り崩してしまいかねないからである。