内的自己対話-川の畔のささめごと

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個体主義者あるいは唯名論的社会学者の限界 ― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(24)

2015-07-21 00:00:00 | 読游摘録

 方法論的個体主義者は、もちろんのこと、社会学者たちが主張する「人格」としての社会という考えを受け入れない。「「人格」としての社会」などというものは、私たちの言語活動による論理的構築物に過ぎないものであり、したがって、それに心理構造や人格的特徴や自尊心などを認めることは到底できないと方法論的個体主義者は主張するであろう。
 しかし、己の原理的個体主義の立場にそのように頑なに固執するやいなや、個体主義者は、歴史的にはっきりと事実として認められた群衆的な諸現象を前に、その無力を曝け出さざるを得なくなる。あるグループ全体や社会全体が怒り、恨み、屈辱感等に捉えられ、大挙して一定の行動を取るとき、それを個体主義者はどう説明するというのか。それらの行動こそ、私たちが日々目にしている私たち人間の歴史的宿命ではないのか。そこから事実様々な争いや災厄が生まれてきているではないか。
 これらの社会的事実、社会的現象、社会的運動を前にして、唯名論的社会学者が言えそうなことは、せいぜい次のようなことにとどまるであろうう。
 このような事実・現象・運動は、私たちを不安に陥れるものであり、それゆえ、私たちは、それが存在しないことを望む。そこで、次のように結論づけよう。この経験的に生きられた事実・現象・運動は、形而上学的には不可能であり、それが見かけ上実在するように思われるのは、群衆の「幻想」にすぎない、と。