内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「すべて」と「全体」との論理的差異(3)― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(8)

2015-07-04 07:26:52 | 読游摘録

 社会学者たちは、« tout » について語るとき、それが « omnis » の意味でなのか、« totus » の意味でなのか、はっきりとさせなくてはならない。方法的に個体主義の立場を取る社会学者が今日多いが、彼らは、「tout とは、omnis のことで、それ以外それ以上ではありえない」と言うであろう。つまり、すべての社会的事実は、全称命題と特称命題との区別という枠組みの中で分析することが可能だと主張するであろう。その場合、ある一つの述定がすべての個体に当てはまるのか、それともいくつかの、あるいはたった一つの個体のみに当てはまるのか、それを知ることが問題になる。
 このような見方は、アンケート調査の結果を記述する仕方に対応している。例えば、「すべての日本人がそのようなことを考えているのではない。60%のみである」などと言うときである。統計処理をするときに問題になるのは、個体の単なる集合である « omnis » の方である。一つ一つの個体について調査・検討し、それを集計して結果を出す。この観点からは、一つの内在的一貫性を有した「全体性」はあり得ない。少なくとも研究対象にはなり得ない。
 言うまでもないことだが、上記のような方法的個体主義の立場に立つ社会学者の研究方法がアンケート調査にのみ限定されるわけではない。実際、ある述定が各個体に当てはまるかどうかという観点からのみ社会的事実を記述することに社会学者が自己規制するのは、「全体性」を語ってはならない、« totus » は受け入れがたいものだと考えているからなのだ。
 なぜそう考えるのか。
 二つの理由がそれぞれに提示されうる。
 第一の理由は、「全体性」を語ることが危険な欺瞞、さらには大衆操作になりうるからである。つまり、人々からそれぞれに意見を持つ自由(言論・思想の自由)を奪うことになりうるからである。これは、だから、倫理的な理由である。
 もし社会が « totus » の意味で « tout » だったならば、諸個人はその社会の部分であり、両者の関係は、ちょうど一個の身体に対する内臓諸器官のような関係であり、それら内臓諸器官が一個の全体としての身体の充足のための機能と存在理由しか持たないように、諸個人は全体に従属させられることになるだろう。そうなってしまえば、もはや諸個人はそれぞれ個々に言うべき言葉を持てなくなり、とりわけ、反逆、離反、対立の権利は蔑ろにされることになる(もし、ここで、私が、「これは、中国や北朝鮮の話で、日本には縁遠い話だと呑気にお考えになっている日本人の方は、今日ごく少数だろう」などと言えば、おまえこそ呑気すぎるとお叱りを受けるであろうか)。
 それゆえに、社会的全体性を語ること、それがあたかも存在するかのように振る舞うことは、危険なのである。もはや言うまでもないだろうが、これが全体主義の危険性である。「全体性」という概念が政治的・倫理的に危険なのは、この概念が権力・権威・優位性を諸個人から簒奪してしまうからである。そうなれば、「全体」の「意志」あるいはその「利益」に逆らうことはできなくなる。その「全体」は、「政党」「国民」「国家」等とさまざまな形を取って個人を抑圧し、従属させるだろう(「国民の生活を守る」政治家たちは「全体(性)」などという「無粋な」言葉はもちろん使わない。しかし、彼らが「国家」「国民」「国益」「日本」などをその同意語として、そして totus の意味で使っていることは、良識ある有能な教師がちゃんと教えれば、小学生にでもわかることである)。
 ここで、「なぜ全体(tout)は私に対して権威・権力を行使することができるのか」と問うてみよう。もし « tout » が « omnis » の意味で使われているのならば、この問いは馬鹿げた問いになってしまう。なぜなら、すべての日本人が、私もその一人であるのに、一つの権威として私を従属させることはできないからである。もちろん、私は他の日本人たちと同じ意見を持つことはある。しかし、それは私が他の人たちに従属することを直ちに意味しない。もし私が彼らとは意見を異にするか、あるいはまだ私自身の意見を持っていなければ、「すべての日本人は同意見である」という命題は偽である。
 全体性概念が危険なのは、それが「全体と部分」の論理において機能するときである。ある団体・集団(国民、政党、教会など)に権威が付与され得るのは、ちょうど有機体がその諸部分の存在理由になっているのと同じような仕方で、それらの集合体に「全体」として実体性があると見なされるときである。これが、社会的全体性に一つの totus としてそれ固有の「実在性」が付与されるときの「からくり」である。