昨日の記事をもって、ようやく Vincent Descombes, Exercices d’humanité — Dialogue avec Philippe de Lara, Les Dialogues des petits Platons, 2013 の第二章 « Les individus collectifs » を読み終えた。
わずか二十四頁ほどの章だったが、これだけ時間をかけてそれを辿ってきたその背景には、ある深い憂慮の念があった。記事連載中には、ところどころにそれを仄めかしただけで、あからさまには言及しなかったが、今の日本の政治的状況を深く憂えつつ、記事を書き続けた。日本での、迷走、というならならまだしも、明らかに暴走しつつある政治的言説を、冷静に分析するために必要最小限の論理的手続きを、デコンブ氏の議論が提示してくれていると考えてのことであった。慧眼なる読者諸氏(と言っても、ごく少数の方たちであることを残念かつ不安に思うが)は、おそらくそのことにすぐにお気づきになられたことであろう(と信じたい)。
同章での、あるいはそこでの議論を詳細に展開した L’emabarras de l’identité (Gallimard, 2013) でのデコンブ氏の所説に賛成するかどうかが問題なのではない。私自身、必ずしも全面的に賛成ではないし、よくわからないところもある。ただ、私たち日本人も、近代民主主義国家「日本」の成員であるならば、これくらい丁寧にゆっくりと時間を掛けて論理的手続きを踏んだ上で、政治的問題の議論に入るような知的成熟が必要だろうと思うばかりである(百年たっても叶わぬ夢だと言われるであろうか)。
国民的レベルでのそのような知的成熟のためには、中長期的観点からは、教育がきわめて大切な国家事業(国家百年の計!)になるわけだが、個々人がそれぞれに自分の意見を自由に言えない、あるいはそもそも持たせないように実のところはしておいて、軽佻浮薄なことを「流暢に」英語でしゃべるだけの、どこにも通用しない似非「国際人」を養成しようという、今の教育システムにどんな期待を託せばよいというか。
一体誰のための国家なのか。
今月16日の安全保障関連法案の強行採決による衆院通過によって、「日本」(私たちの祖国の名は、いまや為政者が濫用する集合的個体概念の一つになってしまっていないであろうか?)は、後世にまで長く禍根を残す過ちを犯してしまった(石川健治氏(東京大学法学部教授)「あれは安倍政権によるクーデターだった」を参照されたし)。「日本の平和と安全のために」― しかし、実のところは国民を無視して、自己の幻想のために ― 暴走するのは、その名に値せぬ現宰相やその取り巻き連中には限らない。自分たちの利権の確保とその拡大しか眼中にない金持ちたちばかりでもない。知性と良識と批判精神を欠いた、単なる権力の走狗たちがメディアを支配している。そんな中で真の公共の議論など成り立つはずもない。テロリスムに脅かされた国だけで、言論・報道の自由が危機に曝されているのではない。権力そのものがテロリスム化した日本は、それよりももっと恐ろしい国だと私たちは気づくべきなのだ。
そのような今の日本においては、日本史の教科書の明治維新の章で皆が必ずや学んだはずの、「五箇条の御誓文」第一条 ―「万機公論に決すべし」― は、もはやその文の意味するところさえ理解されず、決定的に忘却の彼方に沈んでしまったのであろう。もしそうであるならば、いっそのこと、もう歴史を学ぶことなどやめてしまえばいい。猛進する猪にも劣る頭脳しか持ち合わせぬ愚かな宰相をいただいた日本には、それこそ相応しい「ポスト・近代」の姿であろう。