内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

猛暑の最中、夏期集中講義始まる

2015-07-26 14:17:00 | 講義の余白から

 一昨日の金曜日から、今年で担当五年目になる夏期集中講義が始まった。
 今年の主題は、昨年の続きで、田辺元の「種の論理」である。テキストは、同じく『種の論理 田辺元哲学選Ⅰ』(岩波文庫)。昨年は、同書第一論文「社会存在の論理――哲学的社会学試論」を読んだ。今年は、その第二論文「種の論理と世界図式――絶対媒介の哲学への途」を読んでいる。
 出席者は三名。博士課程前期二年生が二人、一年生が一人。学生たちに聞いてみたところ、前期在学者中休学者を除くと、現在五名しか在籍していないという。ちょっと寂しい気もするが、それだけ先生たちと親しく話す機会も多くなるだろうから、よりよい指導が受けられるかもしれない。
 私が担当する「現代哲学特殊演習②」は、毎年猛暑の最中になるので、教師も学生たちもそもそも体力的に楽ではない。それもあって、今年は、五日連続にならないように、金曜日から始め、日曜日に一日休めるようにした。いくら建物の中は冷房が効いているとはいえ、炎天下の行き帰りは、遠方から通う学生たちにとっては、それだけでかなりの体力消耗である。
 そこへもってきて、難解極まるテキストを読まされるのであるから、この演習は、学生たちにとって、知的訓練というよりも、精神的修行、あるいはより端的に、「苦行」と言ったほうがいいかも知れない。自分たちの母語である日本語で書いてあるテキストなのに、いったい何が問題なのかさえよくわからないとき、心理的ストレスも小さくないであろう。難解で毎回少しずつしか読めない原書講読の場合、その歩みの遅さに情けなく思うことはあっても、自分の担当した短い箇所が一応訳せただけでも、何がしかの達成感は得られるであろう。ところが、田辺のような難解な文章は、かなり哲学的訓練を積んでからでないと、どうにも捉えようがなく、本当に途方に暮れてしまう。
 もちろん教師である私は、その難渋する読解行路の道案内役なわけであるが、登山が登山者それぞれ自分の脚力で実行しなければならないのと同じように、テキスト読解もそれぞれの学生の知力が拠である。
 毎回、三人全員に約十頁ずつテキストの内容を報告させる。A4一枚に、重要語句・要約・図式的説明をまとめたものを予め準備させ、そのコピーを全員に配布し、それに基づいて、互いに担当箇所を説明する。一つの報告が終わると、質疑応答に入る。私が質問し、学生からの質問に答えることが主になってしまうことが多いが、質疑応答がうまく噛み合えば、そこから全員での討議に発展することもある。しかし、そこまで行くのはなかなか容易ではない。それはともかく、皆それぞれにテキストを理解しようと努力してくれている。田辺がいうところの「種」を捉えようと、皆格闘している。
 その助けになるようにと、田辺の文章をできるだけ易しい表現に解きほぐしたり、具体例や視覚的イメージを使って説明を試みたりしているが、それが新たな問題を引き起こしてしまうこともある。それはそれでよい。テキスト読解そのものが最終目的なのではなく、それを通じて田辺の哲学的思考の現場に立ち会い、そこから現実の問題を自ら哲学的に考えることこそがこの演習の目指すところなのだから。