内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『エセー』の « homme d’entendement » についてのつぶやき

2023-05-10 23:59:59 | 読游摘録

 昨日引用したツヴァイクの一節は、前にも言ったように保苅瑞穂氏がPUF版仏訳から日本語に訳したものである。Le Livre de Poche 版の新訳と比べてみて、一つ気づいたことがある。それは、新訳には「きみの時代の出来事に」で始まる一文の前にドイツ語原文でもフランス語で記された « L’homme d’entendement n’a rien à perdre. » という一文が挿入されていることである。この一文がいつ挿入されたのか、一旦完成した原稿に挿入されたのか、注がないのでわからないが、モンテーニュの『エセー』のなかの一文 « l’homme d’entendement n’a rien perdu, s’il se garde lui-même. »(第一巻第三十九章「孤独について」)を念頭に置いてか、あるいは記憶に頼っての引用であることは間違いない。
 この « l’homme d’entendement » という表現は『エセー』の他の章でも数回使われている。類似の表現 « gens d’entendement » は二十数カ所で使われている。現代仏語訳を見ると、そのままの場合もあるが、 « d’entendement » が « intelligent » や « raisonnable » などの形容詞に置き換えられていることのほうが多い。日本語訳を見ると、まず当該箇所は「悟性ある人」(関根秀雄訳)「思慮にたけた人」(宮下志朗訳)となっている。他の箇所では、「分別のある人間」(関根訳)「判断力のある人」(宮下訳)など、文脈によって違った訳が与えられている。
 ただいずれの場合も、真偽、善悪、要不要などを正しく区別でき、己自身を失うことなく生きている人のことを指している。そのような人は、「万一何から何までことごとく失せてなくなる時が来ても、それらなしにすますことが別段こと新しく思われないであろう。」(Ⅰ‐39、関根訳)
 「おのれ自らをもつ」(se garder lui-même)とは、魂が「己自身に立ち戻る」(同章)ことである。それができさえすれば、すべてを失ったとしても何も失ったことにはならない。L’homme d’entendement は、その魂が己自身に立ち戻ることが常日頃からできている人だ。
 魂を己自身に立ち戻らせること。今の私自身にとっては、正直なところ、これはただの思念でしかない。空言だとは言わないまでも。ただ、上掲の一文を常日頃忘れずにいることならできる。それは無駄ではないと思う。