内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自然の傾向性を「あやまり」と呼ぶならばの話だが

2023-05-28 09:57:01 | 哲学

 『エセー』には、昨日記事で取り上げた箇所以外にも、過去・現在・未来についての考察が述べられている箇所がある。例えば、第一巻第三章「われわれの情念は、われわれの先へと運ばれていく」の冒頭である。この冒頭は一五八八年刊行の三巻本での増補とそれ以降の手書きの加筆からなっており、そこに見られる微妙な変化が興味深い。
 ちなみに、全文でも実質五頁ほどの短い文章だが、版ごとの変化が大きいことで諸家の注意を引いている章でもある。
 冒頭部に見られる加筆の跡がわかるように、宮下志朗訳を少し改変して引用する。

人間はいつだって先のことばかり追い求めているではないかと批判して、未来のことは思い通りにならないのだし、過ぎ去ったことよりも、つかみどころがないのだから、現在の幸福をしっかりつかんで、そこに腰をすえなくてはいけないと教える人々がいるけれど、彼らは人間のあやまちのうちでもっともありふれたものに触れているのだ。まあそれは、自然そのものが、その仕事を続けていくのに役立つようにと、そうした道をわれわれに進ませることを、あえてあやまりと呼ぶというならばの話だが。

 未来への配慮に囚われて現在の幸福を摑み損なっている人たちに対する批判に、モンテーニュは単純に同意しているわけではない。自然がそれ自身のために私たちにそうするように仕向けている自然の傾向性を「あやまり」と呼ぶとすればの話だがと留保を付している。
 そして、この文に末尾に、(自然そのものが)「知識(science)よりも行動(action)のほうに執着するという、このまちがった考え方(cette imagination fausse)を、その他同類のものとともに、われわれに刻み込むことによって」(われわれにそうした道を進ませる)と、手書きで加筆されている。
 この辺の微妙な変化が、執筆時期を区別することなく一体の本文として訳している宮下訳では見えなくなってしまっている。この手書きの加筆からまた一五八八年版で増補された部分に戻る。

われわれは自分のところになど絶対におさまってはいないで、いつでもその先に出ていくのだ。恐怖、欲望、希望といったものが、われわれを未来へと投げ出して、現在のことについての感覚や考察を奪いさり、やがてそうなるであろうこと、それどころか、われわれがもはやいない先のことにまでかかずらわせる。

 そして、このあとに手書きで、「未来を思いわずらう心は不幸なり」というセネカの『書簡集』から引用が付加される。
 自然の傾向性に引きずられることを単純に肯定することはできないが、かといって、自然に抗って「正しく」生きることで問題が解決するわけでもない。私たちはそうはできていないのだから。恐怖、欲望、希望などによって、私たちを今ここにいる私たちから未来へと追いたててやまない自然に対して、知識でそれに対抗することは無理なのだとすれば、いったいどう向き合ったらよいのだろうか。