内的自己対話-川の畔のささめごと

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「品性」は調整できるか ― 『エセー』第一巻第二十五章「子供の教育について」のなかのある一語をめぐる問い

2023-05-16 16:35:49 | 哲学

 自分であまり使うこともなく、人の文章で使われているのを読んでも、その意味するところがいまひとつ腑に落ちない言葉が私には少なからずある。「品性」もその一つだ。
 例によって『新明解国語辞典』の語義を一つの手懸りにしてみよう。そこには「〔道徳的な面から見た〕その人の性質(性格)」とあり、用例として「品性下劣だ/そんな事を言うと品性が疑われる」が挙げられている。「品行」との違いは、こちらが道徳的な面から見た「行い」であるに対して、「品性」は性質(性格)が問題となることだ。
 なんでこの言葉が気になったかというと、保苅瑞穂氏の『モンテーニュの書斎』のなかにモンテーニュの『エセー』第一巻第二十五章「子供の教育について」からの引用があって、そこに「生徒の知性を潤すべき最初の思想は、彼の品性と良心を正しく調整することを教え、おのれを知り、よく死に、よく生きるすべを教えるものでなければならないように私には思えるからである」(« il me semble que les premiers discours dont on doit lui abreuver l’entendement, ce doit être ceux qui règlent ses mœurs et son sens, qui lui apprendront à se connaître, et à savoir bien mourir et bien vivre. »)とあるのだが、「品性」は原文では « mœurs » である。このフランス語は文脈に応じてかなり多義的で訳すのがやっかいな語のひとつだが、それにしてもこれを「品性」と訳すことに私はかなり抵抗を覚える。
 このフランス語は「習慣的な行い」というのがおおよその意味であり、どちらかといえば「品行」のほうがまだ近い。性質や性格ではなく、その表現としての習慣的行為がむしろ問題なのだ。そうであってこそ、それを調整あるいは矯正することも可能である。実際、現代仏語訳の一つは « conduite » に置き換えている。
 関根訳では「行いと分別を調える」、宮下訳では「自分の人となりと良識とをしっかり統御して」となっている。宮下訳の「人となり」は「品性」に近い。だから同じ疑問が湧く。自分の人となりを統御できるだろうか、と。
 ましてやこの章では子供の教育が問題なのである。それがいくら貴族の子弟の教育であっても、自分の品性や人となりをなんとかしろと言われては、子供たちもどうしてよいかわからず困惑するばかりではないだろうか。
 それと関連するもう一つの問題は « discours » である。これは「思想」ではないと思う。もっと具体的な言葉による教説だと思う。そうであってこそ、子供たちはその都度の場面においてどのように振る舞うべきかの指針を得られる。
 ついでに(副次的問題だという意味ではなく、同時にはとても扱えないから、一言言及するに留めざるを得ないという意味において)、« sens » について一言。保苅氏は「良心」と訳している。この「良心」が個々の行いに関して具体的かつ直感的に良し悪しを区別できる能力を意味するのであればそのとおりだと思う。現代語訳の一つはその脚注で bon sens の意と取ってもよいとしている。宮下訳はそれを参考にしたのかもしれない。私としては「分別」という関根訳を支持したい。