内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

モンテーニュの文章を「麹」として醸造されたパスカルの超辛口白ワインをあなたに

2023-05-29 03:43:30 | 哲学

 モンテーニュの『エセー』とパスカルの『パンセ』との文章としての味わいの違いを、独断と偏見に基づいて、不謹慎・不適切・無知蒙昧を百も承知のうえで、ワインに喩えて言ってみましょう。
 モンテーニュの文章の味わいは、ちょっと、否、かなり、複雑で、芳醇と言えばもちろんそうなのですが、その性格はというと、ミレジム(millésime 収穫年度)によってかなり異なります。まあ、でも、御本人が生まれ育った地方のワインであるボルドーの赤の味わいに対応しているとは言えるのかな。どんな料理と合わせるか、楽しみな味であるとも言えます。
 それに対して、パスカルの文章は、とことん磨き上げられた超辛口白ワインで、それ自体を味わうことを求めてきます。でも、そう何杯も続けて飲めない。というか、酔えない。いや、そもそもワインに喩えたのが間違いだったかも知れない。だって、一杯飲んだだけで、自分が置かれている「悲惨な」現実がびっくりするくらいくっきりと見えてきて、いっぺんに酔いが醒めてしまうのですから。
 一昨日、昨日の記事で引用したモンテーニュの『エセー』の箇所を「麹」としてパスカルが「醸造」した次の文章を読んでみればそれがわかると思います。
 なにはともあれ、さあ、極上の辛口を一杯、どうぞ。

 われわれは決して、現在の時に安住していない。われわれは未来を、それがくるのがおそすぎるかのように、その流れを早めるかのように、前から待ちわびている。あるいはまた、過去を、それが早く行きすぎるので、とどめようとして、呼び返している。これは実に無分別なことであって、われわれは、自分のものでない前後の時のなかをさまよい、われわれのものであるただ一つの時について少しも考えないのである。これはまた実にむなしいことであって、われわれは何ものでもない前後の時のことを考え、存在するただ一つの時を考えないで逃しているのである。というわけは、現在というものは、普通、われわれを傷つけるからである。それがわれわれを悲しませるので、われわれは、それをわれわれの目から隠すのである。そして、もしそれが楽しいものなら、われわれはそれが逃げるのを見て残念がる。われわれは、現在を未来によって支えようと努め、われわれが到達するかどうかについては何の保証もない時のために、われわれの力の及ばない物事を按配しようと思うのである。
 おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来とによって占められているのを見いだすであろう。われわれは、現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたにしても、それは未来を処理するための光を得ようとするためだけである。現在は決してわれわれの目的ではない。過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけがわれわれの目的である。このようにしてわれわれは、決して現在生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、われわれは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたないわけである。
           パスカル『パンセ』ブランシュビック版一七二;ラフュマ版四七、前田陽一・由木康訳、中公文庫