ある言葉の意味が変遷し、もともとは価値中立的だった言葉が否定的な意味でのみ使われるようになることがある。
フランス語に médiocre という形容詞がある。今日では、「凡庸な、ありきたりの、無能な」「平均以下の、並以下の」など、否定的な意味でしか使われない。学生の成績について使われるときは、合格点以下の悪い成績を意味する。名詞 médiocrité についても同様で、褒め言葉としてはけっして使わない。
ところが、これらの語の元である中世ラテン語 mediocris にも mediocritas にもそのような否定的な意味はなく、「(大きさや質において)中間の、ごく普通の、ほどほどの」ということを意味し、上掲のフランス語ももともとは価値中立的、場合によっては褒め言葉にさえなった。上の二つのラテン語は medius からの派生語で、この語は「真ん中にあるもの」の意である。
モンテーニュの『エセー』には、今日と同じように「平凡な、凡庸な」という否定的な意味で médiocre が使われている場合も数カ所あるが、そうとは言えない箇所が一つだけある。それは第三巻第二章「後悔について」の中にある。アレクサンドロス大王とソクラテスを比較している箇所である。
Et la vertu d’Alexandre me semble présenter assez moins de vigueur en son théâtre, que ne fait celle de Socrate, en cette exercitation basse et obscure. Je conçois aisément Socrate, en la place d’Alexandre ; Alexandre en celle de Socrate, je ne puis : Qui demandera à celui-là, ce qu’il sait faire, il répondra, Subjuguer le monde : qui le demandera à cettui-ci, il dira, Mener l’humaine vie conformément à sa naturelle condition : science bien plus générale, plus pesante et plus légitime. Le prix de l’âme ne consiste pas à aller haut, mais ordonnément. Sa grandeur ne s’exerce pas en la grandeur ; c’est en la médiocrité.
この引用の最後の一文の日本語訳を比較してみよう。「魂の偉大さは、高い場所ではなしに、むしろ月並みさのなかで発揮される」(宮下志朗訳)、「偉大な霊魂は、偉大な身分のうちに見いだされず、中くらいの身分のうちに見いだされる」(関根秀雄訳、国書刊行会版)、「魂の偉大さは、偉大さのなかにでなく、平凡さのなかに発揮される」(保苅瑞穂訳、『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』講談社学術文庫、2015年。原本『モンテーニュ私記―よく生き、よく死ぬために』筑摩書房、2003年)。
いずれの訳を読んでも、médiocrité 自体を道徳的価値として称揚しているわけではないことがわかる。どこで魂の偉大さはもっともよく見いだされるのか、という問いに対して、それは、ソクラテスのように、慎ましく人目につかない日々の行いにおいて、人間の生活をその自然な条件にしたがって導くことの中に見いだされる、とモンテーニュは答えている。そのほうがはるかに普遍的で、いっそう骨が折れ、いっそう正当な学問なのだと言うのである。
保苅氏は『モンテーニュの書斎』(講談社、2017年)でも同箇所を引用しているが、「平凡さ」を「中庸」に置き換えている。「中庸」は、しかし、それ自体が道徳的価値の一つである。モンテーニュは médiocrité を礼賛しているのであろうか。そうではないと思う。ごく普通の、なんら特筆に値しない、日々の暮らしのなかにいつでも起こりうる種々の事柄において、人間の生活をその与えられた自然な条件にしたがって導いていくことのほうが、より多くの注意と勇気と持続する意志を必要とするのであり、それを日々実践できることにこそ魂の偉大さがあると言っているのだと思う。
私たちが本来生きる場所。それが médiocrité なのだと私は思う。