キリスト教神学において、聖餐の秘跡に関して、実体共存(consubstantiation)と実体変化(transsubstantiation)という相対立する教義がある。前者は、聖餐においてキリストの体と血がパンとぶどう酒と共存すると考える。この考えはルター派によって支持されている。後者は、聖体の秘跡においてパンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わると考える。カトリックの公式教義である。
実体共存説は実体変化の教義に反対するものとしてルター派によって主張されたのがその始まりであるが、形容詞 consubstantiel はカトリックにおいて別の意味で使われていた。「同じ実体に属する」あるいは「同じ実体をなす」あるいは「実体において一つである」という意味である。父と子と聖霊の関係を表すときに使われる。例えば « Le Fils est consubstantiel au Père. » と言えば、「主キリストは父なる神と同じ実体である」ということを意味する。あるいは、主キリストと人間の関係について使われることもある。
このキリスト神学用語がその神学的原義を離れ、「実体において同じである」という意味で使われ始めるのがモンテーニュの時代だった。実際、『エセー』のなかでこの語は非宗教化された意味で数回使われている。例えば、第三巻第十三章「経験について」のなかに « les biens et les maux, qui sont consubstantiels à notre vie » という表現がある。「私たちの人生の実質をなす善と悪」ということである。
今日、非宗教的あるいは世俗的な意味でこの形容詞を使う場合、「不可分である」とか「共存する」という、原義からすればやや弱められた意味で使われる。しかし、モンテーニュ自身は神学的原義を承知の上で非宗教的な文脈において「実体として一つ」という意味で使っていた。特に第二巻第十八章「嘘について」の中の次の有名な箇所はそう読まなくてはならない。
Je n’ai pas plus fait mon livre, que mon livre m’a fait. Livre consubstantiel à son auteur.
わたしがこの本を作ったのではない。むしろこの本がわたしをつくったので、それはその著者と本質を同じくする書物……。(関根秀雄訳)
わたしがこの書物を作ったというよりも、むしろ、この書物がわたしを作ったのである。これはその著者と実体を同じくする書物……。(宮下志朗訳)
手元にある四つの現代フランス語訳のうち三つはそのままこの形容詞を残しているが、一つだけ inséparable に置き換えている。誤訳だとは言わないまでも、誤解を招きかねない無用な置き換えだと思う。なぜなら、私と書物とがそれぞれに存在していて不可分だという意味に取られてしまいかねないからである。モンテーニュは、単に両者が不可分だと言いたいのではなく、実体において一つだというもっと強い意味で consubstantiel という形容詞を使っている。
この点に関して、保苅瑞穂が『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』(講談社文芸文庫)のなかで引用しているフーゴー・フリードリッヒの次の指摘が参考になる。
Sa forme ouverte est l’équivalent littéraire de ce qu’il y a d’illimité dans la substance du monde et de la vie, dans l’expérience intime de l’auteur. Il est comme un vêtement étroitement ajusté qui épouserait la respiration calme ou précipités de l’esprit. […] Il permet de modifier les perspectives pendant la rédaction même et de placer toutes choses dans un éclairage changeant, aucun n’étant jamais définitif. (Hugo Friedrich, Montaigne, traduit de l’allemand par Robert Rovini, Paris, Gallimard, coll. « tel », 1968, p. 362-363)
この本の開かれた形式というのは、世界と生命の実体や著者の内的な経験のなかにある無限なものと、文学的にいって等価なのである。これは精神の穏やかな、あるいは激しい息遣いと一体になった、体にぴったり合った着物のようなものである。〔…〕そのおかげで著者はこれを書いている間も視点を変えて、変化する照明のもとに一切を置くことができるのだが、どの照明も決して最終的なものではないのである。(保苅瑞穂『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』、381頁)