日本語で「時を通り抜ける」とか「時を走り抜ける」とか言うと、「時をかける少女」のことが思い合わされ、どちらかというと積極的なアクションのイメージをもたれる方もいらっしゃるかも知れない。
『エセー』で « passer le temps » という表現でモンテーニュが言わんとしていることは、もちろんそれとはまったく別のことだ。生きて享受するためにあるはずの現在から目を逸して生きていること、それが「時を通り抜ける」ことだ。
私は、運命や自分自身の誤りによって押し流され、嵐のように翻弄されている人々や、自分の幸運を無気力に、無関心に受け取っている、もっと私の身近にいる人々のことを、さまざまに思い描いてみる。かれらこそは本当に自分の時間を通り抜ける者たちなのだ。かれらは現在と、現にいま所有しているものを飛び越えて、希望の奴隷になり、想像が眼の前にちらつかせる影や空しい幻影を追っている。(『エセー』第三巻第十三章「経験について」)
恵まれた今に心を集中し、それを味わい、よりよく生きようとするかわりに、未来を当て込み、未来に「投資」し、今ここにはないものに希望を託し、未来の「安心」を買い、そうすることによって現在をみすみす「通り抜け」てしまう。そのことに気づいたとき、もうそこにその「今」はない。
一方、先の見えない不安な時代、未来に希望を託さず、現実から目を逸し、とにかくこの瞬間を楽しもうとする人たちもいる。しかし、それもまた、時を通り抜けてしまうという点で、「希望の奴隷」たちと同じなのだ。未来に希望を託し、その奴隷になりたくないからと、けっして捉えられない刹那の奴隷になってしまっていることに本人が気づいていないだけの話なのだ。
そんな人たちのことを自分はそれとは違うよと私は嘲笑っているのではない。それどころか、これは私自身の切実な問題なのだ。
無償で恵まれた今を感謝しつつ十全に生きること、なぜかくもそれは難しいのだろう。