内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

時を過ごさず、時を味わうために

2023-05-26 10:02:32 | 哲学

 保苅瑞穂氏には、『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』(講談社学術文庫、2015年。原本、筑摩書房、2003年)、『モンテーニュの書斎 『エセー』を読む』(講談社、2017年)という二つのモンテーニュ論があり、このブログでもたびたび言及・引用してきた。両者には重複するテーマもあり、ほぼ同じ記述が見られる箇所もあるが、いずれかでしか取り上げていないテーマももちろんあり、どちらも味わい深い名著であると思う。
 両書に取り上げられているテーマの一つに、モンテーニュが « passer le temps » という表現に独自の意味を与えているという話がある。前著でより詳しく論じられており、よりいっそう興味深い。
 この表現は今日でもごくありふれた表現で、「時間を過ごす」「時間を潰す」の意で使われる。ところが、モンテーニュはそれを承知の上で、「時を駆け抜ける」「時を通り抜ける」という独自の意味を与えている。その箇所を同書の保苅訳で引用しよう。

私はまったく自分だけの辞書を持っている。私は時が悪くて不愉快なときには、時を通り抜ける je passe le temps。時が良いときには、それを通り抜けようとは思わない。何度もそれに手で触れ、味わい、それにしがみつく。悪い時はそれを駆け抜け、良い時はそこに立ち止まらなければならない。(258頁)

J’ai un dictionnaire tout à part moi : je passe le temps, quand il est mauvais et incommode ; quand il est bon, je ne le veux pas passer, je le retâte, je m’y tiens. Il faut courir le mauvais, et se rasseoir au bon.

 興味深いのは、保苅氏が retâter という動詞を「何度も手で触れ、味わい」と訳していることである。現代の用法としては、他動詞として使う場合「再び手を触れる」という意味で、「何度も」という含意は必ずしもない。それに、「味わう」という意味で使うときには間接他動詞となり、前置詞 de を伴って「再び味わう」の意になり、この前置詞の後にその味わう対象が置かれる。この二つの意味を織り込 むことによって相当にアクセントをつけて保苅氏はこの動詞を訳している。ちなみに、同箇所、関根秀雄訳は「いつまでもそれを味わい」と保苅訳に近く、宮下志朗訳は「もう一度さわって」とあっさり訳している。
 訳の適否をここで論いたいのではない。この文脈で passer という動詞が「(できるだけ)対象に触れずにそれを通り抜ける」あるいは「その傍らを通り抜ける」という意で使われており、時に対する態度としてそれを信条とする「賢明な方々」に対してモンテーニュが異を唱え、次のように述べている箇所が保苅訳だとより際立ってくることに注目したい。

しかし私は、人生がそういうものではないことを承知しているし、いま私がそれを摑んでいる最後の老境のときにあってさえ、価値がある、快適なものだと思っている〔…〕人生を楽しむには、その切り盛りの仕方というものがあって、私は人の二倍は楽しんでいる。なぜなら楽しみの程度はそれにどれくらい身を入れるかに掛かっているからだ。とりわけ自分の人生の時間がこんなに短いことに気づいているいまは、それを重みの点で引き伸ばしたいと思っている。人生が逃げ去る素早さを、私がそれを摑む素早さで引き止め、人生の流れ去る慌ただしさを、人生を生きるたくましさで補いたいと思っている。生命の所有がますます短くなるにつれて、それだけ私はその所有をいっそう深い、いっそう充実したものにしなければならないのだ。(258‐259頁)

 この一節は、保苅氏も指摘しているように、残り短くなった命への執着を語っているのではない。恵まれた時を「過ごす」(通り抜ける)のではなく、それを「味わう」ための「切り盛り」(du ménage)あるいは工夫について語っている。Pochothèque 版には、« Il y a du ménage à la jouir » という一文に « il faut une sage administration pour en jouir. »(「それ[=人生]を味わうには賢い手配が必要だ」)という脚注が付いている。このような人生への態度は、保苅氏によれば、「生命に対する天性の意志」であり、「この意志は、すべての人間が生きものの本能として備えているはずのもの」である。ところが、この意志が「屈折することなく働いた例」はごく一部の例外を除いて、フランスの歴史に必ずしも多いとは言えない。
 フランスに限った話ではない。他人事でもない。