昨日読んだ箇所の直後に、シモンドンは、「技術」(« technique »)と労働(« travail »)との区別を導入する。以下、説明的な補足を若干加えつつ原文(p. 512)をほぼ忠実に訳せば以下のようになるだろう。
対象に直接働きかける技術と共同体(あるいは社会)の中で与えられた約束事に従って実行される労働とは違う。技術者は、単に与えられた仕事を実行する労働者ではない。
労働は、共同体の他の成員たちには隠された自然的対象への直接的な働きかけという性格を失うことで、もはや厳密な意味では技術ではありえない。なぜなら、真正の技術者は、共同体に隠された或いは接近不可能な対象とその共同体との間の媒介者だからである。
私たちが今日の社会で技術者と呼んでいる人々は、実のところ、専門化された労働者たちであり、彼らはもはや共同体にとって何か隠された領野との関係をその共同体にもたらす力能の所有者たちではない。すっかり解明され顕にされた技術(つまり対象と間に形成された安定的関係の維持のためのスキル)は、もはや技術ではなく、一種の労働である。一定の手続きを繰り返し行うだけのいわゆる「スペシャリスト」は、真の技術者ではなく、実のところ、労働者である。
真正な技術的活動は、今日、科学的探究の領域に見出される。科学的探究は、まさにそれが探究であるがゆえに、未知の対象あるいは属性に向かって方向づけられている。
自由な個体とは、探究を行う者であり、それによって非社会的(あるいは超社会的、または複数社会に通底的な)対象との関係を設立する者である。
今日は、« Note complémentaire sur les conséquences de la notion d’individuation » 第二章 « Individuation et invention » 第一節 « Le technicien comme individu pur » の第二段落を読もう。
紀元前六世紀のイオニアのギリシア諸都市では、武器製造技師・建築技師は、まさに優れた意味での技術者になる。技術者はそれらの都市に拡張能力をもたらす。彼は技術を知悉した者である。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスなど、今日ソクラテス以前の哲学者たちとして知られているが、彼らは何よりもまず技術者なのである。
この記述の後に、すでに9月15日の記事で引用した次の一節が来る。
On ne doit pas oublier que la première apparition d’une pensée individuelle libre et d’une réflexion désintéressée est le fait de techniciens, c’est-à-dire, d’hommes qui ont su se dégager de la communauté par un dialogue direct avec le monde (op. cit., p. 511-512).
忘れてならないことは、自由な個人的思想と公平無私な考察との最初の出現とは、技術者のこと、つまり、世界との直接的な対話によって共同体から自らを解放できた人間のことだということである。
この後に、Paul Tannery, Pour l'histoire de la Science Hellène. De Thalès à Empédocle (1887) が援用され、その記述に基づいて、古代の「ギリシャの奇跡」において技術思想が果たした決定的に重要な役割が説明される。
Le miracle est l’avènement, à l’intérieur de la communauté, de l’individu pur, qui réunit en lui les deux conditions de la pensée réflexive : la vie organique et la vie technique (ibid., p. 512).
奇跡とは、共同体の中に、純粋な個体が到来することであり、その純粋な個人が己のうちで反省的思考の二つの条件、有機的生と技術的生とを統合する。
古代ギリシャにおける最初の技術者たちは、例えば、タレスがそうしたように、日食を予言することでその力能を示したのである。
ILFI の補遺の一つ « Note complémentaire sur les conséquences de la notion d’individuation » 第二章 « Individuation et invention » 第一節 « Le technicien comme individu pur » 冒頭の読解を続けよう。
Il [=le médecin] n’est pas seulement un membre d’une société, mais un individu pur ; dans une communauté, il est comme d’une autre espèce ; il est un point singulier, et n’est pas soumis aux mêmes obligations et aux mêmes interdits que les autres hommes (p. 511).
彼[=医者]は、単に一社会の一成員なのではなく、一個の純粋な個体である。ある共同体にあって、(他の成員とは)別の種に属しているようなものである。一個の特異点であり、他の人たちと同じ義務と禁止には拘束されていない。
節のタイトルにもあり、この引用の中にも出て来る「純粋な個体」(« individu pur »)がこの文脈での鍵概念である。どのような意味で「純粋」と言われているのだろうか。
ここまでは共同体(あるいは社会)における医者の特権的(もちろん今日的な意味での社会構造の観点からではなく、むしろ人類学的観点から見たときの)立場が考察対象であったが、この引用の直後には、ある共同体で他の成員たちに対してやはり特権的な立場に立つ者の例として、魔術師と司祭が挙げられていることからもわかるように、問題は、彼らが共同体内で特別な位置を占め、特別な機能を果たすのは何に拠るのか、ということである。
その答えを一言で言えば、共同体内での一般的義務・禁止事項等によって一切拘束されることがなく、他の成員たちには「隠された」〈自然〉(人間身体もそこに含まれる)と直接交信し、その〈自然〉に直接働きかけることができる力能である。だからこそ、共同体の首長・王であっても、彼らには従わざるを得ない。
Le technicien, dans une communauté, apporte un élément neuf et irremplaçable, celui du dialogue direct avec l’objet en tant qu’il est caché ou inaccessible à l’homme de la communauté ; le médecin connaît par l’extérieur du corps les mystérieuses fonctions qui s’accomplissent à l’intérieur des organes. Le devin lit dans les entrailles des victimes le sort caché de la communauté ; le prêtre est en communication avec la volonté des Dieux et peut modifier leurs décisions ou tout au moins connaître leurs arrêts et les révéler (ibid.)
技術者は、ある共同体内にあって、新しく掛け替えのない要素をもたらす。それはその共同体の人には隠されており、近づき難いものとしての対象との直接対話である。医者は、内臓器官の内部で実現されている不可思議な機能を体の外から知る。占い師は、犠牲者の臓腑のうちに共同体の運命を読み取る。司祭は、神々と交信し、神々の決定を変更させるか、あるいは少なくとも神意を知り、それを顕にする。
共同体内にあってその共同体の拘束を超脱し、自然的対象と直接「対話」し、そこから何かを読み取り、あるいは何らかの変更をもたらし、さらには何らかの生産を可能にする者、それが「技術者」なのである。〈自然〉との関係のこの直接性がシモンドンの言う純粋性に他ならない。
今日はシモンドンのテキストそのものを読むので、厳密には「シモンドン研究を読む」という連載のタイトルはそれに相応しくはないが、ファゴ=ラルジョのシモンドンについての論文を読んでいる過程で必要だと私が判断した作業なので、連載タイトルはそのまま維持することにする。
私たちがこれから読むのは、ILFI の補遺の一つ « Note complémentaire sur les conséquences de la notion d’individuation » の第二章 « Individuation et invention » の第一節 « Le technicien comme individu pur » の冒頭である。ただ、その冒頭は第一章の帰結を前提としているので、まずその帰結を私なりにまとめると次の段落のようになる。
「社会」(« société »)は、開かれたものであり、そこに入って来る外なるものに対して柔軟に対応し、その社会の構成要素である個人は自由な主体として行動し、その限りにおいて倫理的価値が形成される。それに対して、「共同体」(« communauté »)は、閉じたものであり、そこでは内と外とを区別する基準が既に固定されており、その基準に応じてしか受け入れと排除が実行されず、もはやその構成要素たる個人は個人として行動することを止め、ただその基準に従って反応するだけの存在であり、したがって、新しい倫理的価値が外部から到来するものとの関係を通じて形成されることはない。
もちろんこれはシモンドンの議論をかなり図式的に要約したものに過ぎず、実際はもっと込み入っている。しかし、第二章冒頭の理解ために必要最小限な論点に限ってまとめればおよそ以上のようになるだろう。
では、第二章冒頭を読んでいこう。
L’activité technique peut par conséquence être considérée comme une introductrice à la véritable raison sociale, et comme une initiatrice au sens de la liberté de l’individu (p. 511).
技術的活動は、その結果、真の社会的理性への導入を可能にするものとして、個人の自由の意味へと導くものとして考えることができる。
それに対して上記の意味での「共同体」においては、個人はその帰属する共同体における機能と同一化される。その機能には二面あり、有機的側面と技術的側面である。確かに、前者の側面においては、個人は完全に共同体における有機的な機能とその有機的状態(軍人であるとか、若いとか年老いているとか)と同一視される。ところが、後者の側面に関しては、個人をある技術とまったく同一化することはできない。なぜなら、その技術には共同体での一個人のレベルを超え出る力能が具わっていることがあるからである。
その優れた例としてここで挙げられるのが医者である。
Le médecin est, dans les poèmes homériques, considéré comme équivalent à lui seul à plusieurs guerriers [...], et particulièrement honoré. C’est que le médecin est le technicien de la guérison ; il a un pouvoir magique ; sa force n’est pas purement sociale comme celle du chef ou du guerrier ; c’est sa fonction qui résulte de son pouvoir individuel, et non son pouvoir individuel qui résulte de son activité sociale ; le médecin est plus que l’homme défini par son intégration au groupe ; il est par lui-même ; il a un don qui n’est qu’à lui, qu’il ne tient pas de la société, et qui définit la consistance de son individualité directement saisie (ibid.).
医者は、ホメロスの詩においては、ただ一人で数人の兵士に相当する者と見なされ[…]、特別に敬意を払われている。というのは、医者は治癒の技術者だからである。医者は魔法の力を有っている。その力は、首長や兵士のような純粋に社会的なものではない。(共同体あるいは社会での)その機能の方が医者個人が有つ力の結果なのであって、その社会的活動の結果として個人的な力が得られるのではない。医者は、集団への統合によって定義される人間以上のものである。医者は己自身によって在る。己自身だけのものである才能を持っており、その才能は、医者が社会に負うものではなく、直接的に把握されたその個体性の確実さを定義している。
今日私たちが病院で診察や処方や手術を受ける医者を想像するだけではシモンドンの言いたいことはわからない。今日の医療の現場の実情からシモンドンを批判しても何も生産的な議論は始まらない。明日も、結論を急がずに、シモンドンのテキストの続きを忍耐強く読んでいこう。
昨日から読み始めたシモンドンのテキスト « Note complémentaire sur les conséquences de la notion d’individuation » には、技術的対象は「隠された対象に対する操作」(« opération sur un objet caché », p. 512)と定義されている。医者が対象とするのは人間の身体である。医者はその身体の「臓器の内部で実行される不可思議な機能」(« les mystérieuses fonctions qui s’accomplissent à l’intérieur des organes », p. 511 )のことを知っている。それは一般人には隠されていることだ。
テキストの文面からほぼ確実に言えることは、医療行為とは創造的なもので、人間の身体は、その行為の対象であるかぎりにおいて、技術的対象と見なされうるとシモンドンは考えているということである。
L’objet technique ainsi élaboré définit une certaine cristallisation du geste humain créateur, et le perpétue dans l’être (p. 512).
このように(医療行為に代表されるような行為によって)入念に仕上げられた技術的対象は、創造的な人間的行為のある一つの結晶化を定義しており、その行為を存在において永続化する。
この文の意味するところをよく理解するためには、しかし、その前後の文脈を踏まえる必要があるので、明日の記事では、一旦ファゴ=ラルジョの論文を離れ、シモンドンのテキストの当該の箇所を原文を掲げながら読んでいこう。
現在シモンドンの主著 L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information(=ILFI)から引用する際には、Jérôme Millon 社から2005年に刊行された一巻本に拠るのが一般的であるが、同書が出版される前のシモンドン研究論文・著書に関しては、この主著の前半と後半とが四半世紀を隔ててそれぞれ L’individu et sa genèse physico-biologique (PUF, 1964)、L’individuation psychique et collective (Aubier, 1989) として出版され、しかも前者は1995年に Jérôme Millon 社から新版が出ているために、人によって引用の際に依拠する版が違っていて、ILFI で引用箇所を同定するのが少し面倒である(これら三著も古書としては現在も入手可能だが、べらぼうな値付けになっている)。しかし、 ILFI 版に « Compléments » として収録されている « Note complémentaire sur les conséquences d’individuation » は二十五頁と短いので引用箇所を探すのも比較的簡単である。
さて、シモンドンがなぜ医者を「純粋な個体としての技術者」(« technicien comme individu pur »)と見なすのか、その理由を見ていこう。
このテキストで、技術的な操作は、文化的な媒介を経ない「対象との直接的な対話」(« dialogue direct avec l’objet », op. ci., p. 511)と定義される。
On ne doit pas oublier que la première apparition d’une pensée individuelle libre et d’une réflexion désintéressée est le fait de techniciens, c’est-à-dire, d’hommes qui ont su se dégager de la communauté par un dialogue direct avec le monde (ibid., p. 511-512).
忘れてならないことは、自由な個人的思想と公平無私な考察との最初の出現とは、技術者のこと、つまり、世界との直接的な対話によって共同体から自らを解放できた人間のことだということである。
この箇所だけ読んでも、私たちが近現代社会の技術者のことを念頭に置いてしまうかぎり、理解し難い主張に見えるかもしれない。それは、私たちにとって、どのような共同体からも自由な技術者を想像してみることが難しいからだ。
ここで問題になっているのは、しかし、古代ギリシャ社会における技術者たちの出現である。とはいえ、単に古代における技術者の活動の歴史的意義が問題なのでもない。明らかにされるべきなのは、技術の本質であり、そのかぎり、現代社会における技術にも妥当することとして議論が展開されようとしている。
本質的には、技術者が身に着けている技術的能力は自分が属している社会から与えられたものではなく、むしろその能力が彼らに社会的地位を得させている。その能力は、技術者の社会的機能とは独立に、直接的に対象としての世界に働きかけることができる。
オトワのシモンドン批判についての検討を終えた後、ファゴ=ラルジョはシモンドン自身に向かって問いかける。
たとえ人間の遺伝子への技術的介入の到来までを視野に収めることはなかったとしても、それでもなお、シモンドンは、人間の個体性を脅かすようないくつかの医学的に大胆な試み(例えば、臓器移植)に対して懸念を示すことはできたはずだし、バクテリアや植物に対する遺伝情報操作(例えば、農業ではすでに普通のことになっていた種子に対する操作)に対して警戒することはできたはずである。ところがシモンドンはまったくそのような素振りを示さなかった。
それはどういうわけなのか。シモンドンは、植物が技術的対象に成りうるということを本気では信じていなかったということなのか。あるいは、Du mode d’existence des objets techniques の中で例として挙げられていた技術的対象にさらにそれらの対象を加えても、同書の中での技術的対象についての考察に何ら変更を加える必要はないと考えていたということなのか。
確かに、シモンドンの世代にとって、参照されるべき主たる技術的対象は、自動車、電磁波の送受信機、コンピューターなどであって、遺伝子組み換えされたトウモロコシの変種や遺伝子操作されたマウスではなかった。しかし、シモンドンは、医学の領域における技術的操作をめぐる当時の動向を無視していたわけではなかった。
ファゴ=ラルジョは、このように述べた後、ILFI の巻末に置かれた補足ノート « Note complémentaire sur les conséquences de la notion d’individuation » から、シモンドンが医者を「純粋な個体として技術者」の範型として論じている箇所、シモンドンの技術の哲学を理解する上で極めて重要な箇所の考察に入る。
そこで、明日から、単にファゴ=ラルジョの論述を追うだけでなく、参照されている ILFI の当該箇所を私たちも直接読みながら、シモンドンが医者を「純粋な個体としての技術者」の範型と考えていた理由の理解に努めよう。
ファゴ=ラルジョの論文には、同じ論文集に論文が収録されてもいるジルベール・オトワ(Gilbert Hottois, 1946-)が1993年に刊行した、シモンドン研究史上最初のモノグラフィー Simondon et la philosophie de la « culture technique », De Boeck に言及している段落が一つある。そこで言及されているのはオトワのシモンドン批判である。
生命倫理を主たる研究テーマとしているオトワは、シモンドンに対して、生命工学が引き起こす諸問題の重大性を認識してなかった点を批判する。それは時代の制約によっては説明しきれない「盲点」だという。なぜなら、すでに1950年代終わりに人間の技術的対象化の可能性にシモンドンは気づいているが、それは主にその対象化がまだ本格化していないことを遺憾に思ってのことだからである。
その証左として、オトワは、シモンドンが1959年に発表した論文 « Les limites du progrès humain » の中で、「人間は、人間として極めて稀にしか技術的操作の対象にならない」と述べている箇所を引用する。その箇所で、シモンドンは、人間が技術的操作の対象になる可能性が孕んでいる疎外の危険に注意を促してはいるものの、その技術的対象化の未発達を遺憾に思ってそう述べていると思われる。
シモンドンはそれ以後この問題を取り上げ直し考察を深めることはなかった。人間に対する物理的科学技術が目覚ましい発達を遂げていた1970年代になってもそれはなかった。それは、オトワによれば、シモンドンが人間の生物学的本性を操作する可能性について本気では信じていなかったからである。人間に対して信じうる唯一の操作可能性は、文化的あるいは象徴的操作であろう、というわけである。
オトワによるシモンドンのこのような批判的解釈に対して、ファゴ=ラルジョは、そのままでは承認しがたいという。なぜなら、上掲の1959年の論文の中でシモンドンが人間に対する技術的操作の例として挙げている僅かな例の一つは外科治療であるが、外科治療は、言うまでもなく、身体に対する象徴的操作ではないからである。それに、動因としての有機体による自発的に方向づけられた生物学的個体化を信じていたシモンドンが、意思に従って方向づけが可能な生物学的個体化を信じてはいなかったということを上記のオトワの解釈が含意しているとすれば、その解釈は支持しがたい。
とはいうものの、シモンドンが稀に上記の問題を取り上げる際、その仕方が驚くほど「楽観的」な調子であることをオトワが強調するとき、ファゴ=ラルジョはそれに同意する。
新ダーウィン主義のパラダイムは、しかし、遺伝子工学の興隆に押されて、今まさに崩壊しようとしているのではないだろうか、とファゴ=ラルジョ教授は問う。ある研究者たちは、技術にアシストされた新ラマルク主義に新ダーウィン主義のパラダイムは場所を譲ろうとしていると考えている。遺伝情報に直接介入する方法を手に入れた人類は、ほとんど己の意思のままに植物種や動物種の変形を方向づけることができるようになっているばかりか、己自身にもその技術を適用しようとしているからである。
人間が介入することなくそれ自身に委ねられた生物圏の進化は、ダーウィン的なタイプのメカニズム(分子レベルでは偶発的な変異、生物世代レベルでは最も不適応な有機体の再生産の停止)に支配されているとしても、人間の手に委ねられた生物圏の進化は、人間によって方向づけられた進化になる。シモンドンの予測は、生物に関する知識とその一般的普及とのその時代における状態を考慮するならば、「生きている-物」(« vivant-chose »)という考え方に対して「生きている-動因」(« vivant-agent »)という発想を立てることで強力で健全な異議申し立てになっていると言うことができる。それだけではなく、その予測はほとんど予言的な意味を持ってさえいる。なぜなら、偶然に委ねられているとそれまで思われていた進化に対して、遺伝子工学の技術的プランがある方向づけを与えることができるようになっているからである。
ファゴ=ラルジョ教授による生物学的観点からのシモンドン批判の続きを読んでいこう。
形成過程にある有機体は発展していくにつれてその個体化を強化するというシモンドンのテーゼは発生学のいくつかのデータによって確証されうる。例えば、ヒトの胎児は免疫システムの成熟以前はより個体化の程度が低いと言うことができる。
しかし、形成過程にある有機体はその遺伝情報を積極的に書き換えるという考えをほのめかすとき、シモンドンは新ラマルク主義の仮説に従っていることになるが、その仮説は生物学的事実によっては検証されていない。生物学の知見によれば、遺伝情報が自然の中で書き換えられるのは偶発的な出来事であり、有機体自身によって導かれてではない。
免疫システムが成熟すると、有機体にとっての非自己に対する攻撃性・破壊傾向が働き始めるが、この過程はシモンドンが描く個体化の統合過程とは大きく隔たっている。
有機体の衰退の諸原因(死の内的原因)に関しては、生物学的には、シモンドンが言うようにそれらを過剰な差異化の側に探さなければならないとは考えられず、むしろ差異化の減退(情報の喪失、細胞機能の誤作動)の側に探すべきだろう。
同一の説明図式が(すべての個体化の)すべての進化段階を説明できるというシモンドンの仮説は興味深いとファゴ=ラルジョ教授は言う。その図式は一つの認識理論から借りたものだが、この理論によると、発明は統合的な手探りであり、場当たり的な手探りではないし、既成の処方の適用でもない。このような考えは尊重に値する選択だと教授は考える。
このシモンドンの選択は、生物学的進化に関しては、生存競争の役割に関するあらゆる考察を退けることへと導く。生物間の離隔は生存競争ではない。葛藤を前個体化段階に投げ返すことによって、シモンドンは、進化の過程を調和と和解の実行の過程として現れさせる。生物が個体化すればするほど生物間のコミュニケーションは向上するというシモンドンの考えは確かに美しいが、それを生態系に適用するのは困難である。
生物のレベルで発生する問題群が心理的な問題群へと昇華されるとき、この後者の問題群は通・超個体的なもの(trans-individuel)において解決されるとするシモンドンの考えは理解し難い、と教授は言う。ただ、生成を構成する持続的な個体化という考え方は、単なる媒介にすぎない生物学的な個体性に結びついた苦痛や死についてくどくどと論じないよう私たちに要求するという点には理解を示す。
要するに、シモンドンの考察は、それが存在論的なものであれ、すでに倫理的(目的論的)なものであれ、進化の総合理論の古典的な諸テーゼからは著しく隔たっているということである。