内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

店の奥の部屋 ― モンテーニュ『エセー』第一巻第三十九章「孤独について」より

2023-05-21 22:35:40 | 読游摘録

 フランス語に « arrière-boutique » という言葉がある。店舗の奥の部屋のことである。言うまでもないことだが、この部屋は表に面した店舗の存在を前提としている。店舗がなければ、店舗の奥の部屋もへったくれもない。店舗には商品が飾られ、客との対応もそこで行われる。それに対して、アリエール・ブティックには客は入ってこない。そこは仕事の合間に休憩する場所である。商品の倉庫を兼ねる場合もあるであろう。
 モンテーニュの『エセー』第一巻第三十九章「孤独について」のなかにこの言葉が出てくる。宮下志朗訳で引用する。

できるならば、妻子や財産を持ち、とりわけ健康を保持すべきだ。でも、われわれの幸福が、それらに依存しなくてはいけないほど、執着するようであってはいけない。われわれの本当の自由と、極めつきの隠れ家と孤独とを構築できるような、完全にわがものであって、まったく自由な、店の奥の部屋(アリエール・ブチック)を確保しておくことが必要だ。そしてこの部屋で、きわめて私的にして、外部のことがらとの交際や会話が入りこむ余地もないような、自分自身との日常的な対話をおこなわなければいけない。妻も子も、財産も、従者も召使いもないように、話したり、笑ったりするのだ。それは、そうした存在を失うような事態が訪れても、それなしで済ますのが、別に目新しくないことにするためである。

 しかし、アリエール・ブティックに引きこもったままでは商売にならない。店に出て客と対応し、商品を売りさばいてこそ、店の奥の部屋を持つこともできるし、それを確保する必要も出てくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「家族の絆」とは何か ― フランス社会の現実と日本社会についての虚像

2023-05-20 23:59:59 | 講義の余白から

 昨日の試験の採点を今日一気に終えた。教務課への成績提出期限は六月一日だから慌てることはなかったのだが、後回しにするとそれだけ採点作業のことが気にかかり、気が重くなるばかりなので、できるだけ早く片付けたかった。もともとそれが私の原則だったが、ここ二・三年、守れていなかった。
 答案は三十七枚。日本語の作文である。長さは六百字以上、上限なし。六百字に満たない答案が二つあったがそれ以外はこの条件を満たしていた。最長は千三百字余り。問題は、「家族の絆」とは何か。今学期後半、是枝裕和監督の『そして父になる』『海街diary』『万引き家族』などを教材として、ずっと家族の様々な形について考えてきた。その間に学生たちが考えてきたことをまとめてもらうのがその狙いであった。
 作文の条件は三つ。第一は、必ず具体例を挙げ、それに基づいて論ずること。抽象的な一般論は不可(大幅減点の対象となる)。例は、現実のものでもフィクションでもよい。第二は、比較文化的視点を導入すること。第三は、与えられた五つの言葉を必ず少なくとも一回は使うこと。その五つの言葉は「親子」「血縁」「個人」「他人」「社会」である。
 誰にとっても無関心ではいられない問題とうこともあり力作が揃った。それらの多くに共通していたのは、家族の絆と親子関係及び血縁関係をはっきりと区別し、家族の絆は血の繋がりなくても成り立つし、血縁関係はむしろそれほど重要なことではないとしていたことだ。
 親しい友人のほうが血の繋がりのある肉親兄弟よりも大切だ。幼少期から可愛がってくれた隣家の老婦人を祖母のように思っている。離婚してそれぞれ新たに別の家族をもち子供が生まれてもみんなで一緒に集まることはあるし、それら全体が複合家族であり、そこにも絆はある。お互いに選んだ者同士が家族を形成する「選択家族」もありうる。同性婚の場合、養子とした子供との間には血の繋がりはないが、それが家族の絆を妨げることはない。
 これらの意見は彼らが現に生きているフランス社会における家族の在り方を反映している。
 他方、日本の家族については、彼らの多くがいまだに非常にステレオタイプで古色蒼然とした見方にとどまっており、現代日本社会がよく見えていないことに驚かされた。日本社会の現実について今日のように情報が入手しやすくなっていても、家族という問題に関しては、日本の現実を積極的には知ろうとせず、「伝統的な」三世代同居家族が日本ではまだ多く、長幼の序が重んじられるとする虚像に囚われている学生が少なからずいたことにはいささか衝撃を受けた。
 日本のサブカルチャー、ポップカルチャー、ファッションなどには強い関心を持ち、実際に情報通の学生も少なくないが、日本の現実の社会問題については、「引きこもり」「いじめ」「男女差別」などはよく口頭発表やレポートのテーマとして取り上げられる一方、家族をめぐる現代日本社会の問題には関心が薄いのだ。
 期せずして、彼らの日本に対する関心の「偏り」が浮き彫りにされる結果となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


遠ざかりゆく学生たち

2023-05-19 23:59:59 | 雑感

 今日が今年度最後の試験だった。午後四時から、この試験を最後に卒業していく学部三年生たち三十数名が準備した送別会がキャンパス内の緑地で行われた。三年生の授業を担当した日本学科の教員すべてが招待された。送別会といっても、特にセレモニーめいたものはなく、学生たちが準備した食べ物や飲み物を飲食しながら歓談し、集合写真を撮るだけのことだが、みな三年間(留年した学生はもっと長い期間)の学業を終え、その多くは晴れ晴れとした顔をしている。
 夏のヴァカンス後、それぞれ次のステップへと進む。日本とは違って、学部を出てすぐ就職する学生はほぼ皆無に等しい。日本学科ではそれはまずあり得ない。日本に留学する者、ストラスブールで日本学科あるいは他の修士課程に進学する者、他の学士号の取得を目指す者、パリの高等教育機関の修士課程に進学する者などなど、まだ二・三年は学業を続ける学生たちがほとんどだ。前途洋々と単純には言えないが、彼らのこれから先の長い人生の幸いを祈念する。
 学生たちはつねに若い。そして私はただ老いてゆくばかりだ。眼の前にいる学生たちが年ごとに遠ざかってゆく。

それからわたしは何歳も年をとった。でも、少しでも賢くなったかといえば、親指ほどにもそうはなっていない。今のわたしと、少し前のわたしは、たしかに二つの存在である。しかし、どちらのわたしのほうが優れていたかとなると、なんともいいようがないのである。もしも人間が、もっぱら良い方向に向かって進むのならば、年を重ねることはすばらしいことだろう。だが、それは千鳥足で歩く酔っ払いの、めまいに襲われた、形をなさない動きなのだ。あるいは風のふくままにゆれうごく葦のそよぎなのだ。

モンテーニュ『エセー』第三巻第九章「空しさについて」白水社版・宮下志朗訳(一部改変)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


母なる言葉への愛と決して成就しない外国語への悲恋

2023-05-18 20:01:48 | 言葉の散歩道

 続けていて虚しくなることはないのかと問われれば、「それはあります」と答えざるを得ない。このブログのことである。こんなこと続けて何になるのだろうか、と。
 一つ一つの言葉を大切にしながら書きたいと思って毎日書いている。でも、なんといい加減なのだろうと自ら認めざるを得ない記事も少なからずあった。それでも、言葉遣いには丁寧でありたいと常に思ってはいるのだが。
 時間が許すかぎり読み直してから投稿する。それでも、必ずと言っていいほど、誤字脱字、打ち間違い、変換ミス、助詞の間違い、不適切な漢字、慣用句の誤った使用、呼応の不備等があって、後日それに気づいて、正直、自分で自分にゲンナリする。それら及び明らかな事実誤認に気づいた場合、記事内容に変更を及ぼさないかぎりという条件つきで修正している。
 自分の目は節穴なのかと吐き捨てたくなるようなミスが見逃されていることも珍しいことではない。そんなとき、お前はその程度の人間なのだという教訓をそこから引き出す以外、私には何もできない。
 これは言葉遣いの巧拙という問題ではない。僭越を承知で言わせていただければ、言葉への愛である。日本語への愛は、母への愛に似ている。フランス語への愛は、決して成就しない悲恋に似ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


学部二年生の学期末試験の和文仏訳問題について

2023-05-17 16:19:58 | 講義の余白から

 今日の午前中、学部二年生の「古代日本の歴史と社会」の学期末試験があった。通年の授業で、前後期それぞれに中間・期末試験があるから、今日の試験が四回目の試験である。多くの学生たちとってこれが二年生として今年受ける最後の試験であった。
 以前話題にしたことだが、この授業は科目名に「古代日本」とあるが、実際は通年で古代から幕末までをカヴァーすることになっている。しかし、これはいくらなんでも無茶な話である。フランス語の参考文献だけを使い、フランス語で説明するだけでよいのならば、なんとか駆け足で日本の中学レベルの日本史の教科書程度の内容はカヴァーできるかもしれない。ところが、学生たちはそのような通史は一年ですでに受講している。二年必修のこの授業では、原則日本語の文献を基礎とし、授業中に日本語のテキストを読ませながら語学的説明と歴史的内容の説明をしていく。学生の多くの日本語読解力はまだ初級レベルだから、当然、進度は遅くなるし、取り上げることができるテーマも限られてくる。そのような制約の中で、私はできるだけ日本の一流の歴史家の書いた一般向け書籍からテキストを選ぶようにした。だからなおのこと日本語の構造の説明に時間がかかる。
 結果、いわゆる鎖国が完成する一六四〇年までしか到達できなかった。残された江戸時代の主要部分については、来年三年生の「近代日本の歴史と社会」の最初の二・三回を使って補うことにした。両方とも私が担当しているからこうした柔軟な対応が可能だった。
 試験では毎回一題和文仏訳を課す。今回は永原慶二の『戦国時代』(講談社学術文庫、2019年)から次の文章を選んだ。

キリスト教と南蛮(なんばん)貿易あるいはポルトガル人との交流そのものが、中世から近世への展開に、直接もたらした影響は、明治(めいじ)維新期(いしんき)の西洋文明のようにかならずしも広範囲(こうはんい)ではないが、鉄砲(てっぽう)・火薬(かやく)だけではなく、仏教に対する見方など、意識や思想の面にも及んでおり、やはりそれなりにはかりしれない大きなものがあった。

 実際の試験問題では、括弧内の訓みはそれぞれ当該語の上の振り仮名になっている。この文の下に「南蛮 : Barbares du Sud;明治維新期 : la période de la restauration Meiji;広範囲 : étendu;鉄砲 : arme à feu;火薬 : poudre;及ぶ : s’étendre」が語義として与えられている。その他の語はすべて授業で取り上げたテキストに繰り返し出てきた言葉ばかりで、その習得を前提としてこの文を試験問題として採用した。
 二年生の終わりに読ませる一文としてはどちらかと言えば長い方である。その長さにもかかわらず、実はこの文が単純な構文であることを把握できるかどうかが第一のポイントである。つまり、「影響は」「広範囲ではないが」「大きなものがあった」がこの文の骨子であることを捉えているかどうかで点数に大きな開きができる。ざっと答案を見たところ、43人の受験者中、構文が掴めていたのは半数以下であった。
 この骨子さえ掴めれば、あとは語句同士の修飾被修飾の関係をどこまで正確に捉えられるかが問題となる。文頭の「キリスト教」から「もたらした」までが「影響」を修飾していること、そしてこの「影響」がこの文の提題であり、文末まで支配していること、この二点を抑えることができれば、あとは語彙力の問題である。
 ただ、もう一点、別の問題がある。それは、与えられた日本語にはそれに相当する語句はないが、仏訳する際に必ず補わなければならない指示代名詞があることである。この文は「影響」が提題であるゆえ、「西洋文明のように」も日本人にはするりと読めてしまう。つまり、「西洋文明(の影響)のように」と補って読むことができてしまう。逆に言うと、それがわからないとこの文はよく理解できない。案の定、できのあまりよろしくない学生たちは、文に顕在的な要素だけで理解しようとするから、ここで躓く。
 この文が話題にしているのは、十五世紀半ばから鎖国までのいわゆる「日本におけるキリスト教の世紀」における西洋文明の影響と明治維新期の影響との違いと前者固有の重要性である。言うまでもなく、キリスト教の世紀における西洋文明の影響と明治維新期の西洋文明とが、より端的に言えば、「影響」と「文明」とが比較されているのではない。それは自明だと日本人なら言うであろう。「西洋文明の影響」と「の影響」(あるいは「のそれ」)を補うほうが確かに厳密かもしれないが、「くどい」あるいは翻訳調だと感じる日本人も少なくないであろう。
 しかし、これはフランス語では通らない。比較されているのは二つの影響であることを明示しなくてはならない。「影響」の訳語としてinfluence を選んだのなら、それを繰り返すか、あるいは指示代名詞 celle に置き換えなくてはならない。以下の私訳では、「影響」を impact と訳しているので、それに応じて指示代名詞は celui となっている。

L’impact direct du christianisme, du commerce avec les Barbares du Sud ou des échanges mêmes avec les Portugais sur le développement depuis le Moyen Âge à l’époque prémoderne n’a pas nécessairement été aussi large que celui de la civilisation occidentale durant la période de la restauration Meiji. Pourtant, comme il ne s’est pas résumé aux armes à feu et à la poudre, mais également il s’est étendu sur les plans de la conscience et de la pensée, telles que les opinions sur le bouddhisme, il eut aussi une importance inestimable à sa manière.

 フランス語における指示代名詞の使用は日本語においてよりはるかに厳密である。それゆえ、フランス語に訳すことで元の日本語文では非顕在的な要素が炙り出されることになる。とりわけ、提題の「は」をめぐってこの問題がよく発生する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「品性」は調整できるか ― 『エセー』第一巻第二十五章「子供の教育について」のなかのある一語をめぐる問い

2023-05-16 16:35:49 | 哲学

 自分であまり使うこともなく、人の文章で使われているのを読んでも、その意味するところがいまひとつ腑に落ちない言葉が私には少なからずある。「品性」もその一つだ。
 例によって『新明解国語辞典』の語義を一つの手懸りにしてみよう。そこには「〔道徳的な面から見た〕その人の性質(性格)」とあり、用例として「品性下劣だ/そんな事を言うと品性が疑われる」が挙げられている。「品行」との違いは、こちらが道徳的な面から見た「行い」であるに対して、「品性」は性質(性格)が問題となることだ。
 なんでこの言葉が気になったかというと、保苅瑞穂氏の『モンテーニュの書斎』のなかにモンテーニュの『エセー』第一巻第二十五章「子供の教育について」からの引用があって、そこに「生徒の知性を潤すべき最初の思想は、彼の品性と良心を正しく調整することを教え、おのれを知り、よく死に、よく生きるすべを教えるものでなければならないように私には思えるからである」(« il me semble que les premiers discours dont on doit lui abreuver l’entendement, ce doit être ceux qui règlent ses mœurs et son sens, qui lui apprendront à se connaître, et à savoir bien mourir et bien vivre. »)とあるのだが、「品性」は原文では « mœurs » である。このフランス語は文脈に応じてかなり多義的で訳すのがやっかいな語のひとつだが、それにしてもこれを「品性」と訳すことに私はかなり抵抗を覚える。
 このフランス語は「習慣的な行い」というのがおおよその意味であり、どちらかといえば「品行」のほうがまだ近い。性質や性格ではなく、その表現としての習慣的行為がむしろ問題なのだ。そうであってこそ、それを調整あるいは矯正することも可能である。実際、現代仏語訳の一つは « conduite » に置き換えている。
 関根訳では「行いと分別を調える」、宮下訳では「自分の人となりと良識とをしっかり統御して」となっている。宮下訳の「人となり」は「品性」に近い。だから同じ疑問が湧く。自分の人となりを統御できるだろうか、と。
 ましてやこの章では子供の教育が問題なのである。それがいくら貴族の子弟の教育であっても、自分の品性や人となりをなんとかしろと言われては、子供たちもどうしてよいかわからず困惑するばかりではないだろうか。
 それと関連するもう一つの問題は « discours » である。これは「思想」ではないと思う。もっと具体的な言葉による教説だと思う。そうであってこそ、子供たちはその都度の場面においてどのように振る舞うべきかの指針を得られる。
 ついでに(副次的問題だという意味ではなく、同時にはとても扱えないから、一言言及するに留めざるを得ないという意味において)、« sens » について一言。保苅氏は「良心」と訳している。この「良心」が個々の行いに関して具体的かつ直感的に良し悪しを区別できる能力を意味するのであればそのとおりだと思う。現代語訳の一つはその脚注で bon sens の意と取ってもよいとしている。宮下訳はそれを参考にしたのかもしれない。私としては「分別」という関根訳を支持したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


パリの古書店からの嬉しい知らせ

2023-05-15 23:59:59 | 雑感

 ソルボンヌ大学(という名称はもう正式には存在しないのですが、rue de la Sorbonne, rue des Écoles, rue Saint-Jacques, rue Cujas に囲まれた大学の建物を指す通称としては残っています)の rue des Écoles を挟んだ真向かいの小さな公園 Square Samuel Paty の一角にちょうどソルボンヌの建物の正面玄関と向き合うようにモンテーニュの銅製の坐像が建てられています。このブログでも何回かその写真を添付したことがあります。
 その坐像から通りを二・三〇メートル東方向に歩くと、Galerie de la Sorbonne という古書店がありました。パリ在住中はよく通い、かなりの数の古書をそこで買いました。これは昨年12月4日の記事で話題にしたことですが、その場所での営業が契約上継続不可能になり、昨年末まででその店舗を引き払わなくてはならないという掲示をシンポジウム出席のためにパリに出かけたときに見かけて、ちょっとショックでした。そのとき、新店舗での開業が決まったら知らせるというので、店主が差し出したノートにメールアドレスを書いておきました。
 昨日、その古書店から今日15日から新店舗での営業再開を知らせるメールが届きました。住所を見ると 4 rue des Écoles となっており、旧店舗から同じ通りを東に六〇〇メートルほど移動しただけです。いい場所に新店舗を開くことができてよかったと、他人事ながらとても嬉しく思いました。
 六月下旬にパリの日本哲学研究会で発表するとき、是非訪ねてみようと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ライン川を越えてドイツのケールまで快適に走る。が、その後に地獄の試練が待ち受けていた。それでも私は再度立ち上がった。

2023-05-14 16:42:41 | 雑感

 今朝四時すぎに目覚めると、昨日ハーフマラソンの距離を走ったにもかかわらず、脚部に痛みどころか疲労感さえありません。これって、老化のせいでただ神経が麻痺しているっていうことでしょうか? それはともかく、昨夕、もし翌朝まで好調を維持することができているなら、ライン川を越えて対岸のドイツの街ケールまで行ってみようと思い決めていました。
 天気は晴れ。午前五時の気温十度。実行あるのみ。六時十分自宅発。ローテーションで毎日履き替えている十六足のジョギング・シューズの今日の「当番」は、HOKA ONE ONEの Clifton 8。クッション性が高く、ちょうどいいめぐり合わせ。
 あらかじめネットで調べておいた最短距離でライン川を目指す。ストラスブールとケールを結ぶ路面電車の鉄橋と並行している歩行者・自転車専用の橋を渡って仏独の国境であるライン川を越える。ライン川上で約7,5キロ走行。橋を渡りきり、ドイツ側のライン川沿いの遊歩道を歩行者・自転者専用の橋 Passerelle des Deux Rives まで六百メートルほど走り、この橋を渡ってフランスに戻る。ここまでは快適そのものでした。ところが……。
 以下、尾籠な話で恐縮です。橋を渡りきってフランスに戻ったところで、腹部にちょっと違和感を覚え始めたのですね。もっと率直に言うと、生理的現象が発生してしまったのです。さらに端的に言うと、トイレに行きたくなってしまったのです。ぶっちゃけ、便意をもよおしはじめてしまったのです。午前七時のことでした。
 これが我が祖国大和国の大都市であれば、公園などいたるところにある清潔な公衆トイレに駆け込めばよいわけですから、さしたる問題にもなりません。当地おフランスには、ヨーロッパの首都を謳う我が愛するストラスブールにも、残念ながら、そんな気の利いたものはほとんどありません。あっても使用に堪えないか、使用可能時間は昼間だけです。
 「なんでこうなるの」と、もって行き場のない怒りと迫りくる便意による冷や汗で、さっきまでの快適なジョギングは遠い過去の話となりました。解決策は一つしかありません。自宅まで最短距離で引き返すことです。しかし、さきほど申し上げましたように、最短で七キロ以上あるのです……。その平坦でありながら苦難に満ちた道程は、絶望との困難な戦い以外の何ものでもなかったと言っても過言ではありませんでした(さすがにこれは大げさか)。
 幸いなことに、天は我を見放さず、なんとか無事帰宅して用を済ませたわけですが、なんか面白くないわけです。今朝の出掛けの調子なら、距離にしてハーフマラソン超えは楽勝と言ってもいいくらいに調子がよかったわけですから。スマートウォッチを見ると、走行距離は十五キロあまり。
 決めました。あと七キロ走ると。で、自宅付近の走りなれた道を私なりにハイピッチで走り、本日の総走行距離を二十二キロといたしました。ザマアーミロってんだ(誰に向かって言ってるの?)。
 今回は生理現象という抗いがたい伏兵によって最後まで快適に走ることを妨げられてしまいましたが、後日必ずリベンジする(って、何の?)、と心に固く決めた、よく晴れた皐月の日曜日の午後でありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鍛え抜かれた褐色の美脚はあっという間に遠ざかっていった

2023-05-13 18:52:22 | 雑感

 いついつまでにこれをしなきゃというプレッシャーから今いっとき解放されているからなのでしょうね。今朝、目覚めると、体がとても軽く感じられました。
 「明日は一日読書三昧だ」と昨晩から楽しみにしていました。ところが、レヴィ=ストロースのモンテーニュについての1937年の講演を読んでいるうちに、まず体を動かしてからでないと落ち着かないという気分になり(レヴィ=ストロースにはなんの咎もないのですが)、十時前、読書を中断し、ジョギングに出かけました。
 走りはじめたときは十キロくらいで切り上げるつもりでいました。ところが、それではもったいないと思えるほどに快適に走ることができ、六キロほど走ったところで、より長いコースへと変更しました。いつも走っている森の中には細道が縦横に張り巡らされているので、そのときどきの体調・気分と相談してコース変更はいつでも可能なのです。
 天気は曇り。気温は十五度前後。風もなく、ジョギングには好適なコンディションでした。森の中ではできるだけ舗装路を避け、土の上を走りました。今週前半に降った雨のせいでまだ水たまりやぬかるみがあるのですが、少し湿った土のクッションを感じながら走る心地よさは格別だからです。
 森を抜けた時点で十三キロ余り走っていたのですが、まだまだいけそうなので、自宅方面を目指しつつ、走行距離を伸ばしていきました。十八キロほど走ったところで、今日の目標はハーフマラソンと決めました。目標が具体的に設定されると自ずとスピードアップします。
 ところがです。ハーフマラソンの「ゴール」まであと一キロほどというところで、後ろからひたひたと足音が迫ってきました。「えっ」と思う間に私の脇をさっと抜けて前に出たのは、栗色の長髪を靡かせながら大きなストライドで飛ぶように走るうら若き女性でした。鮮やかなオレンジ色のTシャツに濃紺のショートパンツ。その下の鍛え抜かれた褐色の美脚はあっという間に遠ざかってゆきました。
 その見知らぬ美しきジョガーを見送った後、自宅に無事帰り着いた孤独な夢見る老ランナーは、ハーフマラソン完走をお気に入りのワインとともに寿ぎました。
 そんな皐月のある土曜の午後でありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


来年度入学願書順位づけ作業を一気に片付ける

2023-05-12 23:59:59 | 雑感

 予定通り、来年度の入学志望者の願書の順位づけを今日一気に片付けることができた。
 定員125名に対して願書総数478通。願書はすべて電子化された書類なので処理は全国共通の専用のサイトにアクセスして行う。以下がその作業手順である。
 全願書の順位づけ作業の前提としてすべての願書の総合点が算出されていなければならない。ところが、さまざまな理由で総合点が自動的に算出されていない願書が毎年必ずある。今年は42通あった。これらの願書は個別に内容を検討して総合点をこちらで算出しなくてはならない。そもそもこのような願書が全国共通のアプリケーションで受理されてしまうこと自体に問題があるのだが、これは個々の審査官レベルではどうにもならない。この総合点算出後、事前に入力しておいたパラメーターに基づいて全願書の仮の順位づけをアプリケーションに実行させる。この操作は数秒で済む。ここまでは昨日のうちに済ませておいた。
 ここからが時間と神経を使う「手作業」になる。すべての願書に目を通して順位づけに異常がないか確認していくのである。この作業に丸一日かかった。五時から二十時まで、途中二回半時間ほどの休憩とジョギング一時間(そう、これは休みませんよ)を挟んだ以外はずっと二台のPCに向かいっぱなしだった。二台同時に使うのは、そのほうが圧倒的に作業効率がよいからである。
 出願者の成績データには相当なばらつきがあり、アプリケーションによる自動計算ではどうしても異常な順位づけが発生する。それを手作業でひとつひとつ補正していく。この作業で頼りになるのはもっぱら審査官の経験値である。このシステムが導入された2018年以来ずっと私が責任を負っているので、それだけ経験値も増大し、年々処理速度はアップしているとはいえ、長時間集中力を要する作業であることには変わりない。最初の年は何もかもはじめてのことだから手探り状態で、全作業を終えるのに十日間ほどかかった。それが六年目の今年は二日で済んだ。もちろんその間にアプリケーションが改善されたということもある。
 最終的な順位決定のためには他の二人の審査官に私が作成した順位表をチェックしてもらわなくてはならない。先程その二人に私のコメント付き順位表を送信した。来週土曜日までにチェックしてもらい、彼らの提案に基づいて最終的な補正作業を行った後、翌週月曜日22日までに確定順位表を専用サイトにアップする。
 彼らからの提案を待つ間、約一週間、別の仕事に集中できるのが嬉しい。