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さぁ、気を取り直して飲みに行くぞ! と再び歩き始めると、なんだかまた石碑のようなものが見えてきた。ここ、秋田では記念碑がたくさんあるらしい。
「平田篤胤先生誕生之地」。
誰?
石碑の近くに看板があり、読んでみた。そこには「本居宣長と並ぶ国学四大人と称される江戸後期の国学者」とある。
知らない。
ただ、地元秋田では先生と言われ、国学の四学者の一人と称されている。只者ではないのだろう。
後日調べてみた。
篤胤は秋田で生まれたものの、不幸な幼少期を乗り越え、20歳で江戸に。そこで国学者となる。ところが、江戸幕府の暦制を批判する書籍を出版したところ、幕府は江戸追放を命令、篤胤は江戸を去り、故郷の秋田へと帰る。
その時の篤胤の気持ちはいくばくだったか。
秋田を脱藩し、江戸で国学者として地位を築き、江戸追放となったものの、門人を引き連れての凱旋だったか。それとも惨めな出戻りだったか。
何故、篤胤は本居のような名声に授からなかったか。
Wikipediaによると、戦後の価値観の転換で評価を落としたという見解が記載されている。一方、別の意見もある。篤胤は国学者だけの地位には留まらず、様々な研究に没頭したという。その一つが死生観であり、妖怪の研究であった。篤胤は国学者という地位てまはなく、民俗学の祖としての要素を強めたという。
「ちくまWeb」で苅部直氏の解説がわかりやすい。
「中央公論社から叢書『日本の名著』の第二十四巻として『平田篤胤』(一九七二年)が一人に一巻を割くという扱いで刊行されている。編集・解説にあたったのは、和辻の門下に学んだ相良亨。その解説「日本の思想史における平田篤胤」では、篤胤が天狗や化け物をめぐる民間の信仰をまじめに受けとめたことにふれ、その「民俗」への関心が近代の民俗学の系譜の源流となったと指摘する」。
篤胤として、この評価は望むところだったのではないか。日本の古典を研究するうち、様々な思いに捉われながら、研究を広げていったのは晩年のこと。思想家としてそれは行き着いた一つの答えだっただろう。
秋田で先生と呼ばれていることは篤胤の評価を揺るぎないものにしている。Wikipediaによれば、「篤胤は久保田城下に住み、邸宅もあたえられ、(中略)当時、菩提所の宗判がないと居住を許されなかったが」、生家の菩提寺を菩提所としたという。
篤胤の死後、埋葬した墓所は現在国の史跡に指定されているとともに、没後100年となった1943年(昭和18年)には従三位が追贈されている。
篤胤の史跡は東京にも多く残っているらしい。碑はないもののの篤胤の私塾、気吹舎は江戸湯島天満宮の男坂下にあったという。果たして、どの辺にあったのか、古地図で調べてみたい。
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