「ペン婦人の丘」と聞けば、どれほどきれいな景色を想像するだろう。
だが、その都市の名前となっているプノンペンは見渡す限り殺伐とした瓦礫のような街並みだった。
午後2時頃、わたしたち外国人一行を乗せたワンボックスカーのタクシーはプノンペン市街に着いた。ほとんど舗装されていないひどい悪路だったにもかかわらず、国境からの約60kmの道のりは順調だった。武装集団が出るとの噂もあったが、タクシーが走るということは、比較的治安は安定している証拠でもあった。
プノンペンに到着すると、同乗していた日本人のYが声をかけてきた。
Yはまだ大学生。春休みを利用して旅行に出てきたのだという。
彼が言うには、いい安宿を仲間から聞いているから、一緒に泊まらないか、とうい申し出だった。わたしもわたしで、バックパッカー仲間から、プノンペンに行ったら、「キャピトルⅡ」に行け、と言われていた。いや、プノンペンに行く外国人が泊まれるホテルは「キャピトルⅡ」しかない、と教えてくれたバックパッカーは首をすくめながら付け加えた。
その「キャピトルⅡ」以外にも泊まるところがあるのか、わたしは彼の申し出に興味を持った。彼は見た目にとても旅慣れたようには見えなかった。だから、彼が何故、そのような情報を持っていたか、或いは何故、そこにわたしを誘ったのか、今ひとつ解せないところもあったが、そうした誘われた偶然に抗う必要など、わたしにはなく、とにかく偶然に誘われるがままに行ってみようと思っていた。
彼は、そうした情報をわたしに提供したにもかかわらず、そのホテルの地理には明るくなかった。どうやって、その情報を手に入れたか、彼が持っていたのはそのホテルの住所が書かれた一片の紙切れだった。我々はその紙切れを基にそのホテルを探さなければならなかった。
もし、タクシーを降りたところがプノンペン市街の真ん中だったとしたら、我々はそこから2kmくらいの道のりをプノンペン市民に尋ねながらやっと1時間後にたどり着いたのである。
1時間もバックパックを背負って歩くのは、どう見てもあまりいいことではないと感じていた。治安のよくないこの街では、ある程度まとまったお金を持った日本人が歩いているとなると、何かが起きても不思議ではなかったろう。
わたしも、途中で宿探しをやめて、「キャピトルⅡ」に向かおうと何度思ったことか。
そうして、辿りついたその宿は、少しこぎれいな、否実際テレビも設置されていたので、かなり上質なホテルだったといえよう。宿の主人も、特に我々を怪しむわけでもなく、ごくごく簡素な手続きで部屋をとることができた。1泊10万5,000リエルだから、米ドルに換算すると約10ドルにもなる。ひとり5ドルはさすがに高い。だが、ここまで来て「やめた」というわけにも行かず、仕方なくわたしはそこに泊まることにした。
部屋に入って、ひどく腹が減ってることに気がついた。Yも腹ペコだという。朝6時にホーチミンを出発してからというもの、水以外に何一つわたしは口に入れていなかった。
宿の一階が飲食店になっていた。早速、階段を下りて店に入り、わたしはぶっかけ飯を頼んだ。店屋には誰一人客がおらず、砂塵を巻き上げて日産のパトロール(日本名=サファリ)が右往左往している。ドアのパネルには「UN」の文字が塗装されている。そのひっきりなしさには、何かものものしさすら感じさせる。
だが、この後わたしは度々Yと旅の考え方などでぶつかり、言い争いにすらなった。それは、価値観などの問題であって、人それぞれ違っていて当たり前なのだが、わたしは、どうもその男とは反りが合わないように思え、翌日わたしは宿を出て、ひとり「キャピトルⅡ」へ引越しをした。
「キャピトルⅡ」はシングルルームが僅か1万1,400リエル。つまり2ドルなのだ。
高層のマンションのような建物は全て外国人用の宿になっていて、一階がフロントと喫茶店だった。その喫茶店には、世界各国のバックパッカーが集い談笑していた。
日本人の割合は1割くらいか。わたしも、喫茶店のテーブルに座ってカンボジアのコーヒーを貰った。
なんてことはない。
ここもかつてフランスの統治下にあった国。ここのコーヒーもヴェトナムと同じように練乳がたっぷりと沈んでいた。
わたしは、少しホッとした。それは、周りに旅行者がたくさん居るからに他ならない。心強いのはもちろんこと、この物騒な国で何が一番重要かといえば、それは間違いなく情報だった。
この外国人の宿には、カンボジアを旅する重要な情報をたくさん聞くことができたのだ。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
だが、その都市の名前となっているプノンペンは見渡す限り殺伐とした瓦礫のような街並みだった。
午後2時頃、わたしたち外国人一行を乗せたワンボックスカーのタクシーはプノンペン市街に着いた。ほとんど舗装されていないひどい悪路だったにもかかわらず、国境からの約60kmの道のりは順調だった。武装集団が出るとの噂もあったが、タクシーが走るということは、比較的治安は安定している証拠でもあった。
プノンペンに到着すると、同乗していた日本人のYが声をかけてきた。
Yはまだ大学生。春休みを利用して旅行に出てきたのだという。
彼が言うには、いい安宿を仲間から聞いているから、一緒に泊まらないか、とうい申し出だった。わたしもわたしで、バックパッカー仲間から、プノンペンに行ったら、「キャピトルⅡ」に行け、と言われていた。いや、プノンペンに行く外国人が泊まれるホテルは「キャピトルⅡ」しかない、と教えてくれたバックパッカーは首をすくめながら付け加えた。
その「キャピトルⅡ」以外にも泊まるところがあるのか、わたしは彼の申し出に興味を持った。彼は見た目にとても旅慣れたようには見えなかった。だから、彼が何故、そのような情報を持っていたか、或いは何故、そこにわたしを誘ったのか、今ひとつ解せないところもあったが、そうした誘われた偶然に抗う必要など、わたしにはなく、とにかく偶然に誘われるがままに行ってみようと思っていた。
彼は、そうした情報をわたしに提供したにもかかわらず、そのホテルの地理には明るくなかった。どうやって、その情報を手に入れたか、彼が持っていたのはそのホテルの住所が書かれた一片の紙切れだった。我々はその紙切れを基にそのホテルを探さなければならなかった。
もし、タクシーを降りたところがプノンペン市街の真ん中だったとしたら、我々はそこから2kmくらいの道のりをプノンペン市民に尋ねながらやっと1時間後にたどり着いたのである。
1時間もバックパックを背負って歩くのは、どう見てもあまりいいことではないと感じていた。治安のよくないこの街では、ある程度まとまったお金を持った日本人が歩いているとなると、何かが起きても不思議ではなかったろう。
わたしも、途中で宿探しをやめて、「キャピトルⅡ」に向かおうと何度思ったことか。
そうして、辿りついたその宿は、少しこぎれいな、否実際テレビも設置されていたので、かなり上質なホテルだったといえよう。宿の主人も、特に我々を怪しむわけでもなく、ごくごく簡素な手続きで部屋をとることができた。1泊10万5,000リエルだから、米ドルに換算すると約10ドルにもなる。ひとり5ドルはさすがに高い。だが、ここまで来て「やめた」というわけにも行かず、仕方なくわたしはそこに泊まることにした。
部屋に入って、ひどく腹が減ってることに気がついた。Yも腹ペコだという。朝6時にホーチミンを出発してからというもの、水以外に何一つわたしは口に入れていなかった。
宿の一階が飲食店になっていた。早速、階段を下りて店に入り、わたしはぶっかけ飯を頼んだ。店屋には誰一人客がおらず、砂塵を巻き上げて日産のパトロール(日本名=サファリ)が右往左往している。ドアのパネルには「UN」の文字が塗装されている。そのひっきりなしさには、何かものものしさすら感じさせる。
だが、この後わたしは度々Yと旅の考え方などでぶつかり、言い争いにすらなった。それは、価値観などの問題であって、人それぞれ違っていて当たり前なのだが、わたしは、どうもその男とは反りが合わないように思え、翌日わたしは宿を出て、ひとり「キャピトルⅡ」へ引越しをした。
「キャピトルⅡ」はシングルルームが僅か1万1,400リエル。つまり2ドルなのだ。
高層のマンションのような建物は全て外国人用の宿になっていて、一階がフロントと喫茶店だった。その喫茶店には、世界各国のバックパッカーが集い談笑していた。
日本人の割合は1割くらいか。わたしも、喫茶店のテーブルに座ってカンボジアのコーヒーを貰った。
なんてことはない。
ここもかつてフランスの統治下にあった国。ここのコーヒーもヴェトナムと同じように練乳がたっぷりと沈んでいた。
わたしは、少しホッとした。それは、周りに旅行者がたくさん居るからに他ならない。心強いのはもちろんこと、この物騒な国で何が一番重要かといえば、それは間違いなく情報だった。
この外国人の宿には、カンボジアを旅する重要な情報をたくさん聞くことができたのだ。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
今はどんな風になってるのかな?カンボジア。シェムリアップには再度訪れたいと思ってるんだけど・・・。
それにしても温厚な師が言い争いをするなんて珍しいね。余程青臭くて生意気な若造だったんだろうね。
ただ、当時の師もまた青臭かったと言えるかもしれないね。今なら心の中で鼻で笑って、上手くあしらってるに違いないと思うから。(笑)
ただ、それがおっさんの証であるという言い方もまたできる訳だけど。
さて、師がこの後どんなカンボジア情報を聞き、そして当時まだ危険な香りを色濃く残していたカンボジアをどんな風に旅したのか、興味津々だなあ。
カッコつけなしで書くよ。
かなりビビってたから。
今後の展開は、はっきし言ってつまらないぞ!
>それにしても温厚な師が言い争いをするなんて珍しいね。余程青臭くて生意気な若造だったんだろうね。
何かにつけて、否定的なことを言い返してくるヤツだったね。翌日、「オレ引っ越しするよ」って言ったら、焦ってたなぁ。
確か、師とも一度言い争いしたなぁ。それは、海外ではなくて、石岡の焼き肉屋。なんて名前だっけ?言い争いの理由は忘れたけれどね。しかし、あそこの焼き肉屋おいしかったね。
オレもまたアンコールを改めて見たいよ。
かなり、豪華ホテルが乱立したって噂じゃないか。
まあ、師とは何度か熱く論じた記憶があるね。けど、俺の中では言い争いまでの感覚はないね。そのいずれもどんな内容だったか覚えてないし・・・。(笑)
ちなみに石岡の焼肉屋は「秘苑(ビヲン)」だね。あそこの生レバー食いたいなあ。
うまかったね、焼き肉。
でも、オレたちケチケチはちょっとずつしか肉を頼まなかったんじゃなかったっけ?
最近、焼き肉屋行ってないなぁ。