翌日、わたしはミニバスを使ってホイアンを発った。
ミニバスといっても、実際は3列シート、8人乗りのワゴン車だ。だが、この小さなワゴン車に実に11人の旅行者が押し込められたのである。車にはもちろんエアコンなどあるはずもなく、蒸し風呂状態。全開にした窓から入ってくるのは、強烈な熱風だった。
そして今、この窮屈なワゴン車が往くひどくでこぼこなこの道路が恐らく国道一号線だろう。
南北に長いヴェトナムを縦断する幹線道路。
沢木耕太郎氏は自身の著作「1号線を北上せよ」(講談社文庫)で「ヴェトナムの一号線は『南下』ではなく、『北上』したい」と書いている。だが、わたしは逆だ。もし、苛烈なアジアの風に吹かれたいのならば、シルクのようなハノイの風に吹かれてから、少しずつ熱風に晒されていく方が断然いい。
実際にわたしは、サパからハノイ、そしてフエ、ホイアン、更には今向かっているヴェトナム中南部のニャチャンに至るまで、上昇していく温度と湿度を伴う風に容赦なく吹き付けられ、その度にわたしはこれから本格化するインドシナの旅に覚醒していったのである。
ともあれ、そんな過酷なミニバスに揺られ、ニャチャンの宿に着いたのが、もうとっくに陽が暮れて、夜の9時頃になってからだった。てっきり、わたしは町のバスターミナルに車が着くのかと思っていたが、「終点だ」と言われて降りたのは、コンクリートで打たれた、ややこぎれいなホテルだった。
既に夜もとっぷりと暮れている。辺りを見回しても薄暗く、繁華な町までは遠いようだ。すると、中から支配人のような人物が現れた。旅行代理店と結託して宿に泊まらせようとする商魂が気に入らなかったが、背に腹は変えられない。「ドミトリーはあるのか」と念のため聞くと、その強欲そうなマネージャーは「もちろんさ」などとしたり顔で答える。
仕方ない。料金も聞く気になれず、わたしはそこに泊まることにした。他の9人の旅行者も既に建物の中に入ってしまったようだ。
ニャチャンはビーチがある高級リゾート地だという。だから、宿もいくらかこぎれいで、その分宿泊代もやや値が張る。
この日、とまった宿はドミトリーで5ドルもとられた。
翌朝、わたしは真っ先にビーチに向かって歩いた。
宿から約15分。幾分ひんやりとした風に包まれながら、南国の町を歩く。すると、突然椰子の木が整然と並ぶ通りが現れ、その向こうに広い海原が見えてきた。
それは、久しぶりに見る海だった。
ビーチ沿いには、小さな屋台を押すパン売りがいた。この頃からだったと思う。フランスパンにハムやチーズなどを挟んだバインミーというサンドウイッチを朝食にするようになったのは。バインミーは恐らくフランス植民地時代の名残の食べ物なのだろう。味付けにニョクマムが使われている以外はまさにパリジャンのお洒落な朝食といったあんばいのものだった。
まだ朝も早く、ビーチには誰もいなかったので、一度宿に戻り、洗濯などを済ませて再びビーチを訪れたのはお昼近くになってのことだった。
遥か向こうまで続く砂浜とそして青い海。
まだ2月も中旬だというのに、ジリジリと肌を焦がす太陽。
砂浜の向こうからはフルーツをいっぱいに抱えた物売りがこちらに向かってくる。
海は静かだった。
そして、今、まさにここは平和だった。
「中部のニャチャンで数百人のデモがあり、県庁前で一人、焼身自殺をとげた者があった。17歳の尼僧であるという」。(開高健著、ベトナム戦記=朝日文庫)
恐らく、今ではすっかりリゾート地に変貌しようとしているこの地にも確実にイデオロギーの戦禍は恐ろしいくらいの激しさをもって刻まれてきたのだろう。
そう、わたしが今立っているちょうどこの場所においても。
モダンな町でも、少し路地を裏に入れば、ぶっかけ飯屋の一軒や二軒はすぐ見つけることができた。
その日の昼飯に、一食8000ドンのニョクマムがたっぷり染み込んだ揚魚のご飯を食べていると、女性が英語で声をかけてきた。
ブロンドのスレンダーな美人が「どうやって注文するのか」と。
わたしは、金髪の美人とぶっかけ飯の組み合わせに少し驚いたが、彼女が何を食べたいかを聞いて、ぶっかけ飯屋のおばちゃんにゼスチュアで注文の仲介をしてあげた。
彼女はチェコ人の22歳。身長はわたしとほぼ同じくらいあった。どうしてこんな子が貧乏旅行に出てくるのか、と思うくらいの端整な顔立ちの女性だった。
食事を終えるとわたしたちはどちらからか声をかけたわけでもないのに、カフェに入って話しをした。
カフェと言っても薄暗い、気味の悪い店である。
棚には、アルコール漬けになっているマムシやサソリの瓶が置かれているのだ。
彼女はそれらに眼をやると、「ふ~ん。ゴキブリはないようね」と顔立ちには似合わない言葉を口にした。
以前、どこかの国で出てきた食べ物に、ゴキブリを揚げた食べ物が出てきた、という。彼女の話しはとにかく面白く時間を忘れて話し込んだ。
翌日、彼女と生春巻きを食べに郊外の店まで歩いてでかけた。
ネムと呼ばれるそれは自らライスペーパーに野菜などを巻いて食べると言うスタイルのものである。食べきれないほどの大皿に野菜とライスペーパーが載せられ、わたしは15本ほど、彼女も13本ものネムを食べた。ものすごい食欲にお互い声を出して笑った。
残念なことに、彼女はこれからヴェトナムを北上するのだという。
彼女とはその日が最後になった。
さて、わたしもいつまでここに留まっているわけにはいかない。1泊5ドルを払い続けるのなら、早くサイゴン、否ホーチミンシティに向かうのが得策であろう。
わたしは急いで旅行会社に出向き、ヴェトナム最大の商業都市ホーチミン行きのバスをブッキングした。一番安いチケットは案の定またしてもミニバスの旅になった。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
ミニバスといっても、実際は3列シート、8人乗りのワゴン車だ。だが、この小さなワゴン車に実に11人の旅行者が押し込められたのである。車にはもちろんエアコンなどあるはずもなく、蒸し風呂状態。全開にした窓から入ってくるのは、強烈な熱風だった。
そして今、この窮屈なワゴン車が往くひどくでこぼこなこの道路が恐らく国道一号線だろう。
南北に長いヴェトナムを縦断する幹線道路。
沢木耕太郎氏は自身の著作「1号線を北上せよ」(講談社文庫)で「ヴェトナムの一号線は『南下』ではなく、『北上』したい」と書いている。だが、わたしは逆だ。もし、苛烈なアジアの風に吹かれたいのならば、シルクのようなハノイの風に吹かれてから、少しずつ熱風に晒されていく方が断然いい。
実際にわたしは、サパからハノイ、そしてフエ、ホイアン、更には今向かっているヴェトナム中南部のニャチャンに至るまで、上昇していく温度と湿度を伴う風に容赦なく吹き付けられ、その度にわたしはこれから本格化するインドシナの旅に覚醒していったのである。
ともあれ、そんな過酷なミニバスに揺られ、ニャチャンの宿に着いたのが、もうとっくに陽が暮れて、夜の9時頃になってからだった。てっきり、わたしは町のバスターミナルに車が着くのかと思っていたが、「終点だ」と言われて降りたのは、コンクリートで打たれた、ややこぎれいなホテルだった。
既に夜もとっぷりと暮れている。辺りを見回しても薄暗く、繁華な町までは遠いようだ。すると、中から支配人のような人物が現れた。旅行代理店と結託して宿に泊まらせようとする商魂が気に入らなかったが、背に腹は変えられない。「ドミトリーはあるのか」と念のため聞くと、その強欲そうなマネージャーは「もちろんさ」などとしたり顔で答える。
仕方ない。料金も聞く気になれず、わたしはそこに泊まることにした。他の9人の旅行者も既に建物の中に入ってしまったようだ。
ニャチャンはビーチがある高級リゾート地だという。だから、宿もいくらかこぎれいで、その分宿泊代もやや値が張る。
この日、とまった宿はドミトリーで5ドルもとられた。
翌朝、わたしは真っ先にビーチに向かって歩いた。
宿から約15分。幾分ひんやりとした風に包まれながら、南国の町を歩く。すると、突然椰子の木が整然と並ぶ通りが現れ、その向こうに広い海原が見えてきた。
それは、久しぶりに見る海だった。
ビーチ沿いには、小さな屋台を押すパン売りがいた。この頃からだったと思う。フランスパンにハムやチーズなどを挟んだバインミーというサンドウイッチを朝食にするようになったのは。バインミーは恐らくフランス植民地時代の名残の食べ物なのだろう。味付けにニョクマムが使われている以外はまさにパリジャンのお洒落な朝食といったあんばいのものだった。
まだ朝も早く、ビーチには誰もいなかったので、一度宿に戻り、洗濯などを済ませて再びビーチを訪れたのはお昼近くになってのことだった。
遥か向こうまで続く砂浜とそして青い海。
まだ2月も中旬だというのに、ジリジリと肌を焦がす太陽。
砂浜の向こうからはフルーツをいっぱいに抱えた物売りがこちらに向かってくる。
海は静かだった。
そして、今、まさにここは平和だった。
「中部のニャチャンで数百人のデモがあり、県庁前で一人、焼身自殺をとげた者があった。17歳の尼僧であるという」。(開高健著、ベトナム戦記=朝日文庫)
恐らく、今ではすっかりリゾート地に変貌しようとしているこの地にも確実にイデオロギーの戦禍は恐ろしいくらいの激しさをもって刻まれてきたのだろう。
そう、わたしが今立っているちょうどこの場所においても。
モダンな町でも、少し路地を裏に入れば、ぶっかけ飯屋の一軒や二軒はすぐ見つけることができた。
その日の昼飯に、一食8000ドンのニョクマムがたっぷり染み込んだ揚魚のご飯を食べていると、女性が英語で声をかけてきた。
ブロンドのスレンダーな美人が「どうやって注文するのか」と。
わたしは、金髪の美人とぶっかけ飯の組み合わせに少し驚いたが、彼女が何を食べたいかを聞いて、ぶっかけ飯屋のおばちゃんにゼスチュアで注文の仲介をしてあげた。
彼女はチェコ人の22歳。身長はわたしとほぼ同じくらいあった。どうしてこんな子が貧乏旅行に出てくるのか、と思うくらいの端整な顔立ちの女性だった。
食事を終えるとわたしたちはどちらからか声をかけたわけでもないのに、カフェに入って話しをした。
カフェと言っても薄暗い、気味の悪い店である。
棚には、アルコール漬けになっているマムシやサソリの瓶が置かれているのだ。
彼女はそれらに眼をやると、「ふ~ん。ゴキブリはないようね」と顔立ちには似合わない言葉を口にした。
以前、どこかの国で出てきた食べ物に、ゴキブリを揚げた食べ物が出てきた、という。彼女の話しはとにかく面白く時間を忘れて話し込んだ。
翌日、彼女と生春巻きを食べに郊外の店まで歩いてでかけた。
ネムと呼ばれるそれは自らライスペーパーに野菜などを巻いて食べると言うスタイルのものである。食べきれないほどの大皿に野菜とライスペーパーが載せられ、わたしは15本ほど、彼女も13本ものネムを食べた。ものすごい食欲にお互い声を出して笑った。
残念なことに、彼女はこれからヴェトナムを北上するのだという。
彼女とはその日が最後になった。
さて、わたしもいつまでここに留まっているわけにはいかない。1泊5ドルを払い続けるのなら、早くサイゴン、否ホーチミンシティに向かうのが得策であろう。
わたしは急いで旅行会社に出向き、ヴェトナム最大の商業都市ホーチミン行きのバスをブッキングした。一番安いチケットは案の定またしてもミニバスの旅になった。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
俺の「男だらけの大運動会」(笑)とは大違いだ。
しかしヴェトナム後半、それまでののんびり具合が重石となって飛ばしてるねえ、師よ。
ま、そんな駆け足もまた旅の楽しみでもあるね。スピード感が爽快だったりする訳だ。
日本人の女の子も居たけれど、お互い牽制しあってる感じだったね。
チェコの女性はものすごく美人で思わずうっとりしたなぁ。
フエ、ホイアン、ニャチャンとペースを上げたが、この先はそうなることやら。
そういえば、師の「オレ深」を抜いてしまったね。