【いくつになってもアン気分】

 大好きなアンのように瑞々しい感性を持ち、心豊かな毎日を送れたら・・。
そんな願いを込めて日々の暮らしを綴ります。

魂の慟哭

2011-02-08 16:21:38 | 心の宝石箱




   霞のかかった、それでも冬日和の天気が続きます。
  ただ、今日は夕方くらいからお天気、崩れるとの事。
  雨となりますと随分、久し振りです。

   2月に入った途端にやって来た暖かさも今日で 8日。
  でも、まだまだこのまま春になる訳ではないでしょう。
  週末辺りから再び寒くなるそうですね。

   さて、三浦綾子著 『泥流地帯』、『続泥流地帯』 を読み終えました。
  それにしても、これだけの素晴らしい本を、
  求めたという事だけで安心し、読んでいなかったという不覚。
  三浦綾子ファンなんて名乗る事さえ、おこがましい気がします。

   その 『泥流地帯』。時代背景は、大正から昭和にかけて。
  そして物語の舞台は北海道、富良野から旭川一帯。
  
   主人公一家は、祖父母が福島県からの入植者。
  まだまだ農民の暮らしが貧しかった時代です。
  父親を早くに亡くし、母親も訳あって家にはいません。

   とは言え、拓一、耕作らは、人格者の祖父母に育てられた事は幸せですね。
  懸命に生きる拓一と耕作兄弟。次々と彼らを襲う人生の試練。
  それは苦難、苦闘と言ってもいいほど過酷なものです。

   そんな中での涙ぐましいほどの兄弟愛と崇高なまでの精神。
  どれだけ心を打たれ、涙した事でしょう。
  いいえ、魂を揺さぶられたと言っても過言ではありません。

   小説中、心に残るフレーズは沢山ありましたが、その中から。
  天変地異と言えば、阪神大震災が記憶に新しい処ですが、
  この時代にも被災者に対して、災害補償なるものがあった事に驚きます。

(略)・・・村には、被災者に対して、
何千個もの慰問袋が送られて来たが、
村長の家だけは、ひと袋も受け取ってはいない。
流失を免れたとは言え、村長の家も半壊し、
泥が家の中に流れ込んだのだ。
が、村長は自分の家庭のためには、
義捐ぎえんの金品を紙1枚さえ受取ろうとはしなかった。
まるで爆発の災害は、
自分の責任であるかのような、あり方であった。



「(略)・・自分たちのふるさとを胸に焼き付けておくという事は、
人間として大事な事なんだ。君たちはいつの日か、
この村を離れて、他の町に住むようになるかも知れない。
しかし、そこに楽しい事が待っているとは限らない。

「いや、辛い目に会ったり、
苦しい目に会ったりする事が、多いかも知れない。
そんな時にな、ふっとこの広大な景色を思い浮かべて、
勇気づけられるかも知れないんだ。
人間はな、景色でも友達でも、
懐かしいものを持っていなければならん。
懐かしさで一杯のものを持っていると、
人間はそう簡単には堕落しないものなんだ」
                      【三浦綾子著 「続泥流地帯」 より】
 

冬の紅葉

2011-02-07 16:33:33 | 香る庭の花綴り


   昨日とほぼ同様の空で明けた今朝。
  今日も暖かい朝です。
  その空は今日も霞で覆われています。

   “昨日は春の真似をして、
  若さの元気と気品を付け、
  霞のスカーフ を付けた。
  そして何と醜い老婆になって
  しまったことだろう。”

     【「エミリーの求めるもの」 第19章】

   ところで靄(もや)、霧、霞。
  どれも同じようなものですね。

   私なども昨日は霧と言い、今日は霞。
  この際、ちょっと調べてみました。

   靄は水平視程が1km以上の
  ものを言い、霧は1km未満。
  
   霧と霞は同じものですから
  古くは春秋ともに使っていた
  そうですが、後世になって春に
  「霞」、秋は 「霧」 と
  使い分けるようになったとか。

   そうそう、こちらの太陽の写真。
  夕日ではありません。朝日です。

   さて、冬萌の今の季節。
  大きな野村紅葉も、それほどでもないリラの木も、
  すっかり葉っぱを落とし、スッキリしています。

   その姿は冬の癒やしという詩をつい先日記したばかりですが、
  本当にそうですね。
  
   1年の間に蓄えたものをものの見事に捨て去る・・。
  木々たちの姿から何とも言えない潔さを感じます。

   そこはかとない春の匂いを感じたとは言え・・
  植物は、着々と春の準備を始めているとは言え、今はまだ2月。
  
   庭には山茶花と苗から求めたパンジー(鉢植え)以外に花らしい花はありません。
  そんな中、真っ赤に燃えたゼラニウムが目に留まりました。(冒頭の写真)

   何もしないのに、1年中花を付け、当たり前のようにそこに咲き続ける花。
  特に、このピンクのゼラニウムは写真に撮る事もなく、どちらかと言えば放りっ放し。
  それなのに花だけでなく葉っぱまで、こんなにも赤く燃え輝いています。

   今読んでいる三浦綾子著
  『泥流地帯』 ではありませんが、
  そこに土があるというだけで、
  どれだけ幸せな事なのでしょう。

   ましてや手をかけなくても
  1年中咲いてくれる花。

   どんなにそれが貴重な
  事なのか思い知らされます。      

   感謝こそすれ、疎んじるなんて
  とんでもない事ですね。  

三浦浪漫に浸る時

2011-02-06 15:23:33 | 『カフェ「薔薇の詩(ポエム)」』編




   起床時に見た空は、
  少々、薄暗い中にもこの処、
  毎朝のように見える明けの明星
  所謂、金星と白っぽい空。

   又、今日も・・と、内心うんざり
  しながら雨戸を繰ったものです。

   でも今朝のそれは霧。
  霧となりますと話は別。

   ピンクに霞んだ空も途端に
  ロマンティックに思えるから不思議です。
  それにしても現金な私。

   





   “・・(略) 私は自分のまわりの冬の美しさに心を躍らせた。
  実に静かで物音がしなかった。
  低い太陽は薄いピンクとヘリオトロープ色を雲の上に投げかけた。”

                                  【「エミリーの求めるもの」 第19章】

   




   今日は、三浦綾子の世界から久し振りに 『アンの世界』 の描写を。
  しかしながら、その風景描写は今更ながら驚くほど酷似している事に気付かされます。








【別角度から】
   



     さて、前回の開店から日が浅いかも知れませんが、
    『カフェ「薔薇の詩(ポエム)」』 の開店と致しましょう。

     それはつい2、3日前のような気がしていましたが、
    それでも明日で1週間なのですね。
    こんな所で月日の早さの経過を思います。

     この処の小説で樺太やオホーツクの海が
    頻繁に出て来ましたので、今日はその海にあやかってみました。

   海と言えば、どうしても夏のイメージが強いですが、
  こんな土物のカップでしたら冬の海に合うのでは・・
  ~なんて、勝手に想像して。相変わらずの独断と偏見です。

   そうそう、例の 『泥流地帯』。1冊は読み終え、続編に入りました。
  小説中の大正15年の十勝岳の噴火が、丁度現在の霧島連山・新燃岳の噴火と重なります。  

絵本の中の休日

2011-02-05 15:58:36 | 心の宝石箱


   




   こちらは今日も晴れ。
  ただ、昨日もそうですが、太陽は出ていますのに、ボ~ッと霞んだ空。

   昨日などは気温の上昇もあって、“まるで春のよう・・” 
  ~なんて思ったものです。

   それにしても、くっきり、はっきりとした冬の空とは
  程遠いものになっています。

   こんな時思うのは、つい黄砂の事。
  まさか、とは思うのですが、そのまさかが先日もありましたものね。

   さて、私が三浦綾子に没頭している事は、連日お伝えしていますね。
  今、読んでいるのは 『泥流地帯』。

   この本、どうやら初めてだったようです。
  いくら読み進めても、その記憶が全くありません。

   “どうして・・?” と、自問自答しながら気付いた事。
  題名のせいでしょう。きっと。

   『泥流地帯』 のイメージから浮かぶ色は灰色。
  じめじめした暗いものでしかありません。

   そんな事もあって敬遠していた・・。それしか考えられません。
  無意識の中の意識・・とでも言うのでしょうか・・。








   



   そんなこんなで・・少々読み疲れた今日は、絵本を取り出しました。
  その絵本とは、レオ・レオーニ作、藤田圭雄訳 『あおくんときいろちゃん』。

   少々、くたびれていますが、それもその筈、子供の頃からずっと一緒だった本。
  私にとっては少なからず思い出のある本です。

   ある日、風邪か何かで学校を休んでいる時、
  父が 『母を訪ねて三千里』 と共に、枕元にそっと置いてくれていた本ですから。
  ちぎり絵の絵本ですが、内容は至ってシンプルです。その物語とは・・。

   “とても仲良しの 「あおくん」 と 「きいろちゃん」 がいつも通り遊んでいます。
  すると、互いの気持ちが重なって 「みどり」 になりました。

   (「青」 と 「黄」 を混ぜ合わせれば 「緑」 になりますね)
  1日の終わり、二人はそれぞれの家に帰ります。
  「うちの子はみどりじゃないよ」

   行き場所を失った 「あおくん」 と 「きいろちゃん」。泣いて、泣いて・・。
  流した大粒の涙は、今度は青い涙と黄色い涙になりました。

   最後に元の 「あおくん」 と 「きいろちゃん」 に戻ってめでたし、めでたし・・”
  ~こんな物語。単純ですが、深いのです。
  行間に 「想像の余地」 がたっぷりある本。

   心の中を空っぽにしてくれ、尚且つ親子のありようなど、
  様々な事を教えてくれる本。心のオアシスのような本。

   「な~んだ、子供の本」 と言うなかれ。
  既に古典とされたこの本は、アメリカでもあらゆる世代で好評を博しているようです。

   そうそう三浦綾子の本。結末、悲劇が多いですね。
  いつの頃からか、結末の悲劇は私には重くなりました。

   つい、ハッピーエンドを望んでいる私がいます。
  その意味でも心が柔軟な若いうちの読書は、大切だと思います。  

異界の鬼

2011-02-04 16:08:58 | リラのお気楽ユメ日記


   




   立春の今日も、こちらは快晴に恵まれました。
  昨日も、そして今日もその晴天は1日中続き、
  太陽燦々の空の下(もと)は、まるで春が来たかのよう。

   本来でしたら・・。「立春とは名のみの厳しい寒さが続いています」
  ~なんて書き出しが常だったと思うのです。

   一方、豪雪に見舞われた方々や、
  火山灰の被害に遭われた方々のご苦労を思います。

   雪は春が来れば解けますが、火山の噴火の終息は
  予測がつきませんものね。1日も早い終息を願ってやみません。

   さて、今日のタイトルとは似ても似つかない、この世の花である優雅な薔薇。
  この季節ですから、ゆっくり、ゆっくり・・と開花してくれています。

   開花するに従って、凛とした姿から小首を傾げ、
  もの想う風情になって来たようです。

   庭からの付き合いですから、もう何か月も。
  こうなれば、1日も長く傍にいてくれる事を願うばかりです。

   ところで、昨日も触れた 「鬼」 の事。
  絵本の中の鬼は、なぜかユーモラスと記しましたね。
  民俗学専門の小松和彦著 『酒天童子の首』 によれば、鬼とは・・。

   「人間が抱く人間の否定形、つまり反社会的、
  反道徳的人間として造形されたもの」 と定義されています。

   つまり鬼とは、『かくあるべき人間』 を否定した一種の鏡像なのだとか。
  「人を殺してはいけない」 「ものを盗んではいけない」
  「真面目に働かなければいけない」 等など。

   これらを否定した存在が 「鬼」 という訳です。
  ですから、働かず、夜ごと宴会を開いて酒を飲み、盗み、殺すのが 「鬼」。

   これらは本来、人間がしてはならない事だったのですね。
  という事は、いつの間にか人間が 「鬼」 になってしまったという事でしょう。

   特に現代は、恐れの感覚が薄くなったと言います。
  しかしながら、日本各地に残る数々の鬼伝説。

   その事からも、鬼に恐れ、おののき律して来た日本人だった筈。
  その原因には様々な事が挙げられるでしょう。
  
   戦後60有余年、「拝金主義」 と 「無神論」 が世の中を席巻(せっけん)。
  宗教的な恐れが全くなくなってしまったからかも知れません。

   不夜城と言われて久しい昨今ですが、昼も夜もなくなった現代の都市。
  鬼などを持ち出すまでもなく、恐怖すら消費される時代となったようです。

   折しも今、読んでいる三浦綾子著 『泥流地帯』。
  冒頭から今ではあまり見る事のなくなった、暗闇の世界が広がっています。

   この小説の根底には、きちんとした宗教観が備わっている事は周知の事実です。
  そう思って眺めますと、単なる暗闇の描写に過ぎないと思っていたものに、
  特別の意味を持ってしまいます。

   まだ全部読んだ訳ではありませんが、親がいないのに、
  この兄弟の素晴らしい人間形成を鑑(かんが)みた時、
  暗闇の世界・・恐れ、おののきも必要なのでは・・と思ってしまいます。







外は闇だった。
星光ほしかげ一つ見えない。まるで墨を塗ったような、真っ暗闇だ。
あまりの暗さに、外に出た拓一は、ぶるっと体をふるわせる。
いつもこうなのだ。もう 6年生だというのに、拓一は夜、
外に出るのが恐ろしい。
(中略)
用を足しながら、拓一はじっと闇に目をこらす。
手でかきまわせば、闇がねっとり手の先についてくるような
気がする。すぐ前にある収穫の終わったえんどうばたけも、
その向こうにぞっくりと繁るエゾ松林も、小高い山も、
ただ闇の中だ。
(中略)
・・・7、8町向こうに、ポッと黄色い灯が見えた。
灯が右に左へ揺れる。拓一は後ずさりした。
(狐火か!?)   闇夜に見える遠い灯は無気味だ。
提灯ちょうちんかも知れない)
そう思った時、いきなり灯が消えた。
寒気がざわざわと背筋を走る。
と思う間もなく、又ぽっかりと灯が揺れる。
言いようもない恐ろしさに、拓一は一目散に
戸口に走る。引戸をがたぴしさせて、漸く家に入る。
                       三浦綾子作 「泥流地帯」 より
 

冬萌の季(とき)

2011-02-03 17:02:52 | 四季のスケッチ



【山茶花】

   





   今朝は雲、一つない快晴の空で明けました。
  まだ明けやらぬ空に明けの明星、金星がキラリ。

   つい先日は、三日月が仲良く寄り添っていましたのに。
  そう言えば、今日は新月なのですね。

   そして又今日は、「鬼は外、福は内!」 の節分。
  今ふと思ったのですが、鬼は怖いものですが、
  絵本などに出て来る鬼は、意外にユーモラスですね。

   「鬼の目にも涙」、「鬼の霍乱(かくらん)」 等の諺にも
  それが表れているような気がします。

   「鬼」 の語源は 「隠(おん)」 とか。
  隠れていて見えないものを人は恐れ、怪物にしたようですね。

   さて、枯れ木のように見える冬の木々。
  すっかり葉っぱを落とした庭のリラの木にも、ちゃんと新芽が出ています。
  “今年こそ花芽も・・” 期待も二重に膨らみます。そんな冬萌の季(とき)。

   一方、花期の長い山茶花。
  こんな風に薔薇に似た花ですのに、なぜか奥床しい花。

   ところで、今の季節にピッタリの、こんな詩はいかがでしょう。
  「冬の枝に慰めあり」。美しい詩ですね。







 
  
 





          【寒中の木の芽】
 1.春の枝に花あり      2.花散り後に
  夏の枝に葉あり       葉落ちて後に
  秋の枝に果あり       果失せて後に
  冬の枝になぐさめあり     芽は枝に顕はる

 3.嗚呼ああ憂に沈むものよ    4.春の枝に花あり
  嗚呼不幸をかこつものよ  夏の枝に葉あり
  嗚呼冀望きぼうの失せしものよ  秋の枝に果あり
  嗚呼春陽の期近し      冬の枝に慰めあり
                         内村鑑三
   

さい果て慕情

2011-02-02 16:16:18 | 四季のスケッチ


   




   昨日もそうですが、2月の声を聞いた途端、暖かくなりました。
  起床時の気温も11度。

   さすがに1ケタの気温ですと、ストーブ1つでは、
  なかなか温度の上昇が鈍いです。

   あの寒さは1月で終わりにして欲しいですが、そうも行きませんね。
  でも、“光の春” と言われる2月だけだけあって、
  寒さの中にも、そこはかとなく春を感じる季節になった事を嬉しく思います。

   そんな中、冒頭の写真の 「カランコエ」。
  昨年は何を思ったか1年中咲き、すっかり冬の花である事を忘れていた花。

   10日位前から思い出したように、1輪、2輪・・と開花してくれています。
  でも本来の開花期の今が、1番居心地良さそうに見えるのは気のせいでしょうか・・。







(略)・・・7時になって、貴乃きのは床を出た。
辺りはまだ暗い。昨日枕許に出して置いた、
大島模様の銘仙めいせんに着替える。寝巻を脱ぐと、
寒さが全身に刺さるようだ。だが一旦寒気に
さらされた肌は、ぽかぽかと暖かくなる。
(中略)
カーテンを開けると、
窓の氷紋が羊歯しだに似た模様を見せて美しい。
部屋隅に置いていた酒もサイダーも
火の気のある茶の間では凍ってはいない。
冷たい板の間の台所に行って、
貴乃は、そこで薪ストーブを焚きつける。
(中略)
落としてあった水道の栓を元に戻し、
冷たい水道の水で顔を洗う。
手の痛くなるような冷たさだ。
どんな寒い時でも、貴乃は水で顔を洗う。
そのせいかどうか、貴乃の肌はゆで卵の
白身のようだと、時々人に言われる。
                三浦綾子作 「天北原野」 より


   




   さて、ここ何日か三浦綾子に没頭し、比べ物にならないとは言え、
  厳寒の、この冬の季節に 「塩狩峠」、「天北原野(上下)」 を一気に読み上げた私。

   荒涼とした原野にスクッと立つ、カラマツやエゾマツの姿が
  目に焼き付いて離れません。いみじくも本の表紙の絵や写真と重なって。

   こちらの記述は、樺太の冬の生活描写です。 
  他の項で外は零下30度位・・とありましたので、この時もそうなのでしょう。

   私などにとっては想像も出来ない寒さです。
  しかしながら小説とは言え、凛としていて清々しいまでの、
  この貴乃の暮らし振り。まさに感動ものです。









                           【三浦綾子「天北原野」より】

   




   一方、こちらの会話。上から孝介、加津夫(貴乃の息子)、孝介、貴乃。
  わけても奥深い貴乃の言葉。何と含蓄のある言葉なのでしょう。
  北国の人が忍耐強くなれるのは、気候、風土の影響も多分にあるのでしょうね。    

さい果ての地に咲く花

2011-02-01 17:40:57 | 心の宝石箱




   今朝の起床時の気温は10度。
  凍てついた? 昨日よりは
  幾分、ましになりました。

   如露の水も凍っていませんし、
  久し振りに寒気の緩んだ朝。

   その割に今日の太陽は、
  日光を出し惜しみしていますので、
  見るからに薄ら寒そうな
  辺りの風景です。

   空も久し振りに
  すみれ色の空になりました。











   さて、相変わらず
  三浦綾子三昧の私の事、
  『天北原野(上下)』 を
  一気に読了。

   『塩狩峠』 のように読んでいる
  つもりで読んでいない本も
  ありますし、こちらのように
  読んだ事を忘れて2冊買う事も。
  (他に 「続氷点」 も)

   とは言え、
  私がこの本を読むのは2度目です。

   随分、以前の事ですので、前述のように、ほとんど忘れている始末。
  それでも全く初めての本を手にした時とは違います。

   何だか旧友・・いいえ、
  幼友達にでも会った気分と言った方がいいかも知れません。

   この小説の時代背景は、大正末期から昭和20年の終戦時まで。
  タイトルの 『天北原野』 とは作中に次のように書かれています。

   “宗谷支庁管内のこの 「猿払(さるふつ)原野」 は、
  日本海側の 「サロベツ原野」 と共に 「天北原野」 と呼ばれている。
  天塩の国と北見の国の1字ずつを取った呼称” としてあります。

   この小説の舞台も、この地と大半が樺太です。
  上の写真、文庫本の表紙そのままの世界が広がっているのでしょうね。
  この表紙を今回のように、しみじみ眺めた事も、かつてありません。

   樺太と言えば、去年の秋に映画 『氷雪の門』 を観たばかり。
  その映像は、心に深く刻み込まれています。

   折しも、つい最近、ロシアの大統領は日本固有の領土、北方4島を訪れましたし・・。
  これらの事は前回読んだ時には、完全にスルーした部分。

   尤も、この小説の醍醐味は、孝介と貴乃の哀しくも美しい壮大な恋愛ロマンでしょう。
  ほとんど忘れていると言っても、さすがにこの部分は記憶にあります。

   でも、それだけに前回は、ほとんど関心のなかった樺太の事や、
  そこかしこに散りばめられている、北の植物の事に今日は敢えて触れたいと思うのです。

   「蝦夷甘草(エゾカンゾウ)」 がとりわけ好きだった貴乃のためにも。
  それにこの 「甘草」 は、アン でもお馴染みですから。   

   樺太も気候は厳しいけれど、その分、ダイナミックな自然の美しさ、
  豊富な漁場や木材等など・・人々の生活は豊かだったようですね。

   そうそう、下巻には戦争とソ連の侵攻があり、
  映画通りの出来事の記述があった事も付け加えて置きます。








(略)・・・「なあ、お貴乃」 「なあに、お父っつぁん」
「おらあ、あのロスケタンポポだけはどうも
気に入らね。ありゃあのさばる草だもなあ」
「ほんとねぇ。私も嫌い。何だか毒々しくて。
やっぱり、タンポポは黄色のがいいわ」

樺太の春は、坂をのめくって転げ落ちる
ようにやって来る。そしてせわしく花を咲かす。
雪が解けたかと思えば、もうその雪解け水を
吸ってタンポポが花を咲かす。
まるで地面に直に花を押し付けたように、
茎も伸びぬままに花が咲く。

その茎が伸びた頃は、もう初夏だ。
エゾツツジ、鈴蘭、カンゾウ などが一時に咲く。
そして、至る所に、血を吸ったような
ロシヤタンポポ が朱くはびこる。
北海道にはないタンポポだ。
野に一面に咲くこのタンポポを見ていると、
貴乃も淋しい。
朱色がなぜ淋しいのか、貴乃は不思議だ。
                三浦綾子作 「天北原野」 より