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遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



大津中の事件もそうなのですが 日本という国を考えると どうしても 被差別 在日 サンカ ....縄文 天皇制 を素通りにできないのです。サンライズブルース のあと アシタカ王(仮題) 縄文のものがたりにすすもうと思いましたら やはり サンカにあたりました。日本人のルーツを考えるとき  まだいくらか カケラが残っている 縄文....サンカは古代史にむかうひとつの入口です。 古代日本人のルーツは秦氏や日ユ同祖論より ずっと時代をさかのぼるように思います。 シュメール スメル の時代にさかのぼるのです。

http://ameblo.jp/hex-6/entry-10730045504.html

ユダヤは世界最古と自称するが、ヘブライはB.C.1700頃から出現  B.C.722 ⇒ この時から10氏族が行方不明
シュメールは更に古く都市文明期のウルク期でBC3500~3100 農耕が始まったウバイド期(ウバイド人)でB.C.8000ごろである。最古の文明とも言われるシュメールは、農耕が始まったウバイド期でB.C.8000ごろである:都市文明期のウルク期でBC3500~3100だが、B.C.2000年には消えてしまう。エジプトの古代王朝でB.C.3500頃、鉄器生産がB.C.3800頃
ところが、青森県の大平山元遺跡で発見された縄文土器は、なんと1万6500年前のB.C.14500で世界最古の土器(ただし縄目が無い)
長崎県北松浦郡吉井町から福井洞穴より12000前の土器、長崎県佐世保市の竜泉寺洞穴より13000前の土器が発見されていてこれらも世界最古級。

日本にもペトログラフがあった。
http://f35.aaacafe.ne.jp/~shinri/petoro.html

日本のペトログラフにCIAが興味を持っている いわゆる ワンワールドとかかわりがある。げに 原発と縄文はおおいなる連環のなかに存在します。日本の民俗学の祖 柳田國男と折口信夫のただならぬ関係はつとに有名ですが もしふたりが男色ではなかったら 日本の古代史はもっと解明されていたかもしれません。権力のやり口はいつも同じ。弱点をみつける。脅す 懐柔する。さもなければ消す。

http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/sanka.htm

『さて、柳田国男氏とその弟子の折口信夫氏らが「日本の全人口の三割はサンカだ」と発表して、タブーに果敢に挑戦しました。つまりオカミの歴史に対して常民史観というようなことを言い出しました。しかしその存在を許さぬサンカが、全人口の何割も今に到るも生存している等とは以ての外であるし、その歴史探究など言語道断という事だったでしょう。

当時、今とは違い男色が最悪の不道徳とされていた時代「折口信夫との間を公表すれば如何となす」と特高に引張られ、脅されて「弟子の彼が可哀そうだ」と「あれは誤りだった」とやむなく訂正の評論を書いて、民俗学の方へ転向してしまいました。現在柳田の研究書は沢山在りますが、こうした深い所ろへの視点が欠けているように思うのは独断と偏見でしょうか。

彼は非常に頭脳明晰な人だったと言いますから、あのまま研究を続けていれば、日本原住民史は、当時はまだ資料は残っていたでしょうから、随分と今とは違った形で解明されたでしょう。次に手がけられてやめた、白柳秀湖氏の場合も、一人娘さんがやはり人質みたいになって、男親って娘が可愛いから、結局彼も折角いいところまで行ったんですが、やむなく中止して右翼の評論家として亡くなってます。
全く日本のオカミのやる事は、昔から汚く陰湿です。』

古事記とシュメール語

http://www42.tok2.com/home/oaksnet/kojiki2.htm

以上

日本というのはほんとうに不思議な国。滅びるわけはないのです。ひとりひとりが この国のルーツを知る 自分のルーツを知ることで この国はもっと輝く。

なんだかふっきれたので アシタカ王 は「名草姫」 「星の神 ミカボシカガセオ」「奴奈河姫」 とは違い 史実はあまり考えず 翼をひろげ自由に語りたく思います。もともと 史実がほとんどみつからないのだから あとはインスピレーションだけ。 うしなわれた過去のものがたり これが いま いちばん 求められている感じが.....だれから?......それは謎。



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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-96.html

以下抜粋

我が国で太古から使われていた言葉、すなわち大陸から列島に漢語の波が押し寄せてくる前のことばをやまとことばという。やまとことばからは、今を生きる我々がとうに忘れてしまった本当の祖国、それを造った先祖たちの生き方を伺い知ることができる。

やまとことばにおいてクシの音をもつものはまず「髪-クシ」、これは頭髪のみを指す。「頭-クシ」は頭部と頭髪の両方を意味する。ちなみに「頭-カシラ」は「クシ」の美称である。髪と頭は「カミ」の音も共有している。「首-クシ」というものもあるが、頸部ではなくそこから上すなわち頭部のことをいい、「頭」とほぼ同意である(すでに身体をはなれてしまった頭部を指すことが多い)。

そして今では完全に忘れ去られた言葉、「奇し-クシ」は、不思議な、霊妙な力をたたえた状態を示す形容詞である。

終わりのある「現世-ウツシヨ」、つまりこの世での命をながらえるための「器-ウツワ」である人の、その「空-ウツ」なる「「内-ウチ」側が「うつ」であると書いた。そこに霊妙なる、奇しき力を宿した人はもはや「うつくし-ウツ・クシ」さを隠すことなどできまい。

ひとのうつくしさは言葉や振舞い、そして顔に現れる。その根源はその人の内側にある魂であり、そこにやさしさや強さや厳しさが具われば口をついてよい言葉となり、よい行いとなり、いずれはよい顔をつくる。見た目の整ったうわべの麗しさとはそもそも源を異にする。奇しき力とは向こうから歩いて来はしない。櫛で梳いた髪も如く、鋤で鋤いた田の如く、つとめて整えられた心の内にこそはじめて降り立つ。

人のみにあらず、それは森羅万象すべて同じく空も、海も、草木も雪も月も花も鳥もみなうつくしい。山河はもとより路傍の石とて人がこの地を踏むはるか昔に生まれ悠久の時に形づくられた姿を呈している。裸でこの世に生まれた我々の暮らしを支える道具もまたうつくしい。日々精進し技を磨いた職人の作り出す道具は用に徹し微塵の隙もなきにしてそのうつくしさは時として人の心を奪う。一枚の画は人の目を楽しませるだけの色と形の組み合わせに非ず、画工の魂から溢れるものをその腕によって紙に写したものである。見るものの心がそれに打たれ画工の心と邂逅したときにうつくしいと思うのである。しかしそれを見る側の心が鈍っていればなにも感じることはできない。

いま、大量生産された粗悪品に囲まれる日々は我々の心を鈍らせる。経済に重きを置くあまり、ありもしない需要をひねり出しありあまる供給をなし無茶な消費を迫る。無駄が無駄を呼ぶ。ありもしなかった需要に存在の価値があるはずもなくすぐさまゴミとして彷徨うことになる。うつくしき山河は土に還らぬ骸で埋められようとしている。
音楽や絵画など凡そ芸術と呼ばれるものは全て商品化されたであろう。作家の魂には値札がつけられ見るものの心はその数字にのみ打たれる。目と舌先を喜ばせるだけの華美な食卓は病巣を育てる。いかがわしい原料から作った物の悪臭を隠すために香料を添加し、あるいは見目よく着色する。おなじく見た目の麗しさを追いかけるのみの美容は異性の目を惹きつけるか同性との競いに勝つためのものでしかない。見ばえのする姿態と見ばえのする暮らしを維持したいと願うものは子を産み育てることから逃げたがる。放射能や遺伝子組み換え食品が不妊を招くといくら喚起したところで馬耳東風、このような人たちと次世代の話する術など、どこにあろう。

日本人が目先にとらわれ心の内側をこれほどまで置き去りにしてしまったのはいつからか。

原発という巨悪に対し立ち上がる動きは日に日に大きくなる。原発を擁護する世論はそれに押され弱まりつつあるかのようにも見える。

しかしここに掻き消せない一抹の不安がある。

それは危険極まりない原発も目に見える表層の現象でしかなく、その内側にははるかに大きな悪が控えていようそのことである。かりに日本から原発がなくなったとして、その後の日本をどう造るのかが如何に語られているのか。いまの生活、いや経済水準を維持するために必要な電力を何かしらの方法でひねり出すことが解決なのだろうか。原発の内側にある本当の問題に気づく者がこの先増えていくのだろうか。

現状、原発の是非の問答は経済にはじまり経済に終わる。ただでさえ不況を抱える今、原発による電気の供給がなければ経済が落ち込むという恐怖が人を捕らえて離さない。それを言い換えれば競争に負ける恐怖である。
周囲から引けをとっていないかに気を揉み、相手を出し抜く方法を教え込まれ、目の前の相手の価値を収入と肩書きで値踏みする。自らと競争相手だけで構成される集団の中で生きている。我々がこの競争に勝つことに生きる意味を求めている以上何も変わりはしないだろう。原発をなくしたところで原発よりもさらに危ういものを作り出すだろう。国とは人の集まりである。人同士の繋がりが競争でしかないのなら、それが集まった国とはいったい何なのか。国同士の繋がりが競争でしかないのなら、この世はいったい何のためにあるのか。

原発はなくすしかない。なくなるしかない。だが本当に戦う相手は原発や原子力村などではない。魔物は我々一人ひとりの内にある。それは見せ掛けの豊かさを手放せない弱さである。他人への妬みと嫉みである。飽くことのない欲である。もとより人に備わる穢れではあるが先祖たちはこれをよく戒め、手懐けて生きていた。それが近代の幕開けとともに競争原理がなだれ込み、勝ちたいがためにこの力を解き放った。鎖を解かれた獣は自由放蕩に暴れ周り我々を競い合いへと駆り立てる。

人々が常に誰かと競い、走り続けるこで経済の車輪が動く。立ち止まることは市場の持ち主たちにとって許しがたい行為である。だから脅して賺して走らせる。脱落するものは踏み潰されそして誰一人として勝者になれない。なぜなら輪を描いて走り続けるだけなのであるから。

外にとらわれ心の内側をこれほどまで置き去りにしてしまったのは、それは無理矢理に外を向かされたそのとき、近代を迎えたときからである。道を誤ったのであれば辻まで戻って行き直すしかない。

心の内側に巣食う魔物をねじ伏せることができさえすれば、原発などはその後ろ盾を失いたちまちに消えて失せる。そして心の内に奇しき力をふたたび呼び戻すことができるだろう。そしてうつくしき人に戻り、うつくしき国を立て直すことができよう。



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