昨日はなぜかわからないけれど ひさしぶりに感覚がひらいていました。目とか耳とかではない 見えないもの聴こえないものとつながる感覚です。reiさんと話しているうちにその感覚はますます鋭敏になってゆきました。
「声」について ちかごろ痛感するのは低音部の不安定さと低音部と高音部のつなぎです。要因になるのは二箇所 声帯の問題ではありません。ひとつは経年劣化。もう一箇所は霊的なものでおそらく王子ホールで起きたできごとによるものでしょう。
仙骨の目覚めを促すこと 骨盤のズレの解消 が 今 力をいれていることで 徐々に効果が出ることでしょう。霊的な問題は霊的に解決するしかありません。
共鳴区をひろげることについては 骨がゆるみ自由になってきて このごろ声が肩甲骨 背中に響くくすぐったいような感覚を覚えるようになりました。胸郭もひろがってきつつあるのですが もうひとつこのごろおざなりになっていたのは 意識 だということに気づきました。トマティスやRADAのあとは意識がとてもひろがり 視野もひろくなり そのことで声が遠くまで響くようになります。声とは不思議なもので 意識がかわるとかわるのです、そしていちどきにたくさんの感覚とつながり 実に多くのことをしている....この多様性も豊かな声の決め手のひとつなのでしょう。
たとえば 自分とつながり 聴き手のひとりひとりと意識でつながり ものがたりのなかの諸象と五官でつながる 季節 風物 温度の感覚 手触りなど そして 登場人物のひとり とつながる。
身体で感じる感覚と意識 それらを統合した声になるとき ものがたりは鮮やかな 色彩 匂い 手触りのあるものとなり ことばではなく 聴き手の扉をひらく......わたしはこのように考えます。目指しているけれど道ははるかに遠いです。いわゆる 文字の音声化 ではない。朗読家の友人が 行き着くところは同じじゃないかといいましたが わたしは違うと思います。身体がないとダメなのよ。それとスピリチュアルの芯。声は声帯が出すものじゃない 通り道に過ぎない 声は息吹 すなわち命 声はひかりそのものなんです。それに気づくか気づかないか....。意識できるかできないか.....。
意識したことは徐々にではあるが カタチになってゆく だから 夢はかぎりなく壮大でいい ただし具体的なイメージが大事かな。あぁ ほんとに道は遠い。だって ただきれいな声が届く 扉をひらくわけではないのだもの。
さて reiさんは最近 師を喪い わたしも二年から三年前に矢継ぎ早に師を三人 失いました。師というのはすばらしいものです。自分ひとりでは見つからないことがとつぜんわかってしまったりする。おもしろいのは 師が気がつかないまま 弟子が受け取ってしまうこともある。ということは 師をとおして天から授かったってことなんでしょうね。
その授かったものをどうするか....できたら体系化する 自分のなかで再構築する そしてつたえてゆく つたえてゆきながら再構築というミチもありますね。わたしはほとんどこれかな。
伝えるひとの胸にちいさな灯を点すように 自分のひかりをつたえてゆくのね。つたえられたひとのなかでその光があかあかと輝いたら はじめて師に恩返し 天に恩返しができるのだと思います。出し惜しみすると それ以上のことは入ってはきません。世のなかはそのようになっているようですよ。あの世にもっていってもしかたない、つたえてつたえて 人間の文化はゆたかになっていったのです。
もう朝になってしまいそうです。今日はこのあたりで.....。少女マンガ 大島 萩尾 山岸 さんのつづき 癒しと再生 も書きたいな.....
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