音楽の喜び フルートとともに

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重たいと言えばあの曲

2024-09-29 09:00:00 | ロマン派
土曜朝は伊藤公一先生のレッスンでした。
ドルチェ楽器さんのレッスンルーム。

パールのバスフルート吹かせてもらいました。音でやすい。それに昔のモデルに比べて軽いです。
とは言っても重い。
本体60万円。
支持棒は別売り約2万円。
買えないなぁ〜。
代わりに私がお借りしているバスフルートを調整できないか?聞いてみました。メーカー不詳。よそで買ったものは基本できないそう。
でも、とりあえず、調整できるかどうか見てくれることになりました。
練習日と重ねてみましたが、コンサートフルートと2本持ち重た〜。
これで調整できなかったら嫌だなぁ〜。

重い気分の時に聴く、重い曲と言えば「ピアノ幻想的小品集から前奏曲「鐘」op.3-2」
1892年に作曲されました。
19歳のラフマニノフ。一体何を背負っていたのでしょう?

セルゲイ ラフマニノフ(1873-1943年)ロシア帝国ノプゴロドセミョノヴォ生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ没

]で下級貴族の家に生まれました。家系はモルダヴィア公・シュテファン3世(1433-1504年)

"Rachmanin" の愛称で呼ばれた "ヴァシーリー" の子孫という伝承を持ちます。

ラフマニノフ家は音楽家の素養を持つ家系でした。
陸軍の将校だった父ヴァシーリイ・アルカジエヴィチはアマチュアのピアニストで、彼はピョートル・ブタコフ将軍の娘リュボーフィ・ペトローヴナと結婚し、その際に妻の持参した5つの地所を手に入れていました。

夫妻は3男3女を儲け、セルゲイはその第3子でした。父親は音楽の素養のある人でしたが、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していました。

1877年、セルゲイが4歳になった後、一家はセミョノヴォから180 km離れた豊かな自然に恵まれたオネグの地所に移り住みセルゲイは9歳まで同地で過ごしました。その後セミョノヴォの地所は1879年に売却されました。

セルゲイは4歳のとき母からピアノのレッスンを受け始め、才能を発揮仕出します。

父ヴァシーリィは息子のためペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナツカヤを招き、セルゲイは彼女からレッスンを受けました。

父ヴァシーリィはセルゲイに軍人の道へ進んでもらいたかったが、その為の資金が捻出できず、逆に借金返済のために5つの地所を次々と売り払っている状況でした。

1882年、ついに父は破産してオネグの地所も競売にかけられ、一家はペテルブルクに移住しました。

1883年、オルナツカヤの紹介で奨学金を得てセルゲイはペテルブルク音楽院

の幼年クラスに入学することができました。その年の暮れ、妹ソフィアがジフテリアで亡くなり、まもなく両親は離婚し、父は家族をおいてモスクワに去りました。

この頃、セルゲイは宗教教育に熱心な母方の祖母ソフィア・アレクサンドロヴナ・ブタコワに連れられてよく教会に通っており、そこでロシア正教の奉神礼の聖歌や鐘の音に影響を受けました。

ロシア正教会で最も重要な修道院の一つ、
至聖三者聖セルギイ大修道院の全景(モスクワ州・セルギエフ・ポサード)。
1885年、声楽の才能に恵まれ、チャイコフスキー作品を紹介するなどセルゲイに大きな影響を与えていた姉イェレナが悪性貧血により17歳で亡くなると大きな喪失感に襲われ、ボリソヴァの地所で療養ましたが、音楽院の授業にも身が入らなくなって不登校となり、一般教養の試験で落第を繰り返すようになります。

1885年

この時期、彼はモスクワ音楽院で行われたコンスタンチン大公

ら著名人も臨席する演奏会で演奏の披露もしていましたが、春季試験で落第します。

悩んだ母は、セルゲイにとって従兄にあたるピアニストのアレクサンドル・ジロティ(1863-1945年)
ジロティ(左)とチャイコフスキー(右)
に相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院
モスクワ音楽院のボリショイ・ザール
に転入し、厳格な指導で知られるニコライ・ズヴェーレフ(1832-1893年)

の家に寄宿しながらピアノを学ぶことになります。

1885年以降の約4年間をここで過ごします。ズヴェーレフは、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込みました。
ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキー(1840-1893年)

に才能を認められ、目をかけられました。

2年後、音楽院初等科を修了したラフマニノフは奨学金を得て高等科に進みます。

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていましたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフは1889年に作曲のための時間が欲しいこと、作曲のための部屋と専用のピアノを提供して欲しいとズヴェーレフに願い出て彼の不興を買います。

ズヴェーレフ邸を出ることになったラフマニノフは父方の伯母ワルワラ・アルカジエヴナの嫁ぎ先にあたるサーチン家に身を寄せます。
ここで姻戚のスカロン家の末娘ヴェラに初めて恋
1990年からは夏にはタンボフ県イヴァノフカにあるサーチン家の別荘を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となり、ロシアを離れるまで毎年訪れていました。イヴァノフカの牧歌的な環境はラフマニノフの創作意欲を刺激し、1891年7月に完成させジロティに献呈した『ピアノ協奏曲第1番 嬰へ短調』(作品1)をはじめとする多くの作品が同地で生まれています。

1891年、ジロティが8月(学年度末)にモスクワ音楽院を離れることを知らされ、他の講師の教えを受けることに不安を覚えたラフマニノフは音楽院に卒業試験の1年繰上げ受験を希望します。その時点で試験までの準備期間が3週間しかないことなどからジロティも院長のワシーリー・サフォーノフも試験結果にはさして期待はしていませんでしたが、ラフマニノフは卒業生から試験の傾向を教えてもらうなどの対策を講じ、同年7月に優秀な成績で合格し、その3日後には音楽理論と作曲の学年試験にも合格しました。

しかし、年の後半を休暇を過ごしていたイヴァノフカでマラリアに罹患し、療養に費やしました。

メダルを授けられてモスクワ音楽院を卒業しました。卒業試験の委員を務めていたズヴェーレフからは金時計を贈られ、和解を果たしています。
5月29日、音楽院から卒業証書が発行され、正式に「自由芸術家」(プロの音楽家)として活動する資格を得ました。

卒業後、ピアノ教師として月15ルーブルの収入を得ながら作曲を続けていたラフマニノフは、グートハイル社と500ルーブルの出版契約を結び、『アレコ』『チェロとピアノのための2つの小品』(作品2)『6つのロマンス』(作品4)が同社から初版されました。

しかしグートハイルからの入金が遅れがちなため新たな収入を求めて1892年、モスクワ電気博覧会にピアニストとして出演し、『幻想的小品集』(作品3)(1.エレジー 2.鐘 3.メロディ)から「前奏曲 嬰ハ短調《鐘》」(作品3-2)を初演し、50ルーブルの出演料を得ました。この曲は熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になりました。

しかし当時ロシア以外で33は版権が保護されていなかったため、これを守るための努力を強いられました。
性格的小品より「前奏曲鐘」op.3-2













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2 コメント

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Unknown (sonetets)
2024-09-29 10:09:53
誤字を見つけてしまいました

しかしグートハイルからの入金が遅れがちなため新たな収入を求めて1992年

1892年ですよね?
重箱の隅をつついてごめんなさい🙏
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Unknown (m-fluteangel16)
2024-09-29 11:08:01
@sonetets さん、いえいえいつも読んでいただいてありがとうございます。
訂正しました。
読み返してみると、他にもあれこれ出てきて時々コッソリ直しています😅💦
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