実家近くの水田。
実家の百日紅(サルスベリ)も咲いてきました。
1880-1883?フランシスコ マヌエル ブランコ
中国原産、江戸時代に日本に入りました。
牛商人の息子として生まれます。彼は9歳から2年だけ地元の学校で学んだだけで、父親から事業を手伝ってほしいと頼まれて学校を辞めています。
少なくなりましたが、まだまだ残っています。
車載温度計によるとこの辺りだけ、気温が一度位低いです。
実家の百日紅(サルスベリ)も咲いてきました。
1880-1883?フランシスコ マヌエル ブランコ
中国原産、江戸時代に日本に入りました。
又しても 百日紅の 暑さかな
正岡子規
暑いです。
ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没
1875年から76年にかけて出版された月刊誌「ヌーヴェリスト」の詩人とのコラボ。7月の曲は「刈り入れの歌」
詩人はアレクセイ コルツォフ(1809-1842年)ロシア帝国ヴォロネジ生まれ
牛商人の息子として生まれます。彼は9歳から2年だけ地元の学校で学んだだけで、父親から事業を手伝ってほしいと頼まれて学校を辞めています。
彼は牛を売買し、動かしました。
その間、父親に内緒で詩を書きました。
1831年文学誌に彼の詩が載りました。1835年には詩集が出版されました。コルツォフはサンクトペテルブルクとヴォロネジを仕事で行き来しながら、詩人や哲学者、文学者と合流しました。
1831年文学誌に彼の詩が載りました。1835年には詩集が出版されました。コルツォフはサンクトペテルブルクとヴォロネジを仕事で行き来しながら、詩人や哲学者、文学者と合流しました。
その中にはプーシキンがいて、彼はコルツォフの詩を詩集の中に入れ紹介しました。
しかし、彼の父親は彼を管理し、支配下に置きました。
創造的な詩作活動を抑圧し、コルツォフは鬱病を発病し、後に結核に罹患し1年の闘病の末え、33歳で亡くなりました。
彼の詩は農民の生活を様式化し、農村での労働を理想化しています。
ロシアの民間伝承を収集し、素朴な農民の暮らしや仕事を称賛しました。
彼の詩はムソルグスキーやリムスキーコルサコフによっても取り上げられています。
「刈り入れの歌」コルツォフ
わが手は楽しみワクワクしてる
さあ、振り上げよう!
みなみ風、
このわが顔を吹きぬけろ!
水田も私の住んでいるところから年々遠くなりました。水田の蛙の声が懐かしいです。
水田脇の用水路に水流れる音を聞くと涼しく感じますね。
夕方は、蛙の鳴き声も良く聞こえます。