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バッハの新譜

2005-10-08 14:08:46 | 折々の随想
今年の6月、ライプチッヒの公文書館で発見されたというJ.S.Bachの新譜。このニュースには驚いたものですが、1ヶ月ほども前から注文していたエリオット・ガーディナーによるCDが昨日やっと届きました。

ヴィルヘルム・エルンスト公の誕生日のための頌歌

 『すべては神とともにあり、神なきものは無し』BWV1127

という名前のついた、ソプラノ、バイオリン、ビオラ、チェロによる声楽と弦楽のための12分20秒の曲でした。

バッハ28歳の時の曲ということですので、多少、バッハに先立つ作曲家の影響が残っておりますが、これは紛れもないバッハです。久々に新しいバッハに触れることができて非常に幸せな気持ちです。実に素朴で美しい曲です。いや、このような言葉ではとても言い表せません。この世の哀切感といったものや、バッハの時代の人々の清らかな生活叙情といったものが、そこはかとなく滲み伝わってくるような曲とでも言ったらよいでしょうか。

しかし、この曲を筆者が若い頃に聴いたとしても、恐らく何の感慨もなく忘れ去ってしまったことでしょう。筆者は、20歳まではクラシック全般とモダンジャズを、そして、20歳以降の37年間はほぼJ.S.バッハのみを聴き続けてきましたが、この作曲家にますます心酔することこそあれ、全く飽きることがありません。もし、1つだけ望みを言えと言われれば、この世での生命が尽きた後もバッハを聴き続けたいと言います。筆者は宇宙の創造者の存在というものを信ずる訳ではありませんが、こればかりはバッハを生んだ天の采配のようなものを感じざるを得ません。この時間の経過と共にバッハに馴染んでいくのはいったい誰の差配なのでしょうか?

もっとも、今読んでいる本にこんな一節がありました。

 我が魂よ、不滅の生命を望むでない 可能の限りを尽くせ (ピンダロス)

このピンダロスという人物は初めて耳にしましたが、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』なら聞いたことがあります。その中に、次のようなことが書いてあります。

「理性の活動、すなわち瞑想的な活動は、真摯なる価値において優越しているだけでなく、それ自体を超えたところに目的を求めず、そのものに固有の喜びをもつようだ....そして最高に幸福な人間にあるとされる他の全ての特質は、明らかにこの活動に関わっているので、これこそが人間の完全なる幸福であるということになる。完全な人生の期間を許されるならばの話だが.....。」
               
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価値ある存在-吉本隆明74語より(9)

2005-10-08 10:52:48 | 価値ある存在
勢古浩爾さんの「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」からの、「価値ある存在」、今日は9回目です。青字は吉本隆明の文章。赤字は勢古さんの文章。黒字は筆者の感想です。

「何か、自分の思っている自己評価より高く見られるようなことだったら嫌だけど、出鱈目なこととか、低く見られることならいいんだってのがこっちの原則なんで。」

この言葉は、吉本が海水浴で溺れて死にそうになったことがあった後、「進め!電波少年」(日本テレビ)という番組のなかで、松本明子にいきなり訪問されて快く応じ、再度水死しかかることがないための訓練とか何とか言われて、洗面器の水に顔をつけたそうです。上の言葉はそのことに対する説明だそうです。

ところで、今度の選挙は民主党の惨敗に終わってしまいましたが、前回の参議院選挙では、小泉首相が「人生色々」などと発言したため、岡田代表の生真面目さが際だったことが1つの勝因でした。ところが今回、小泉首相はガリレオ・ガリレイまで持ち出し、死んでも郵政民営化をやると決意を見せたのに対して、またまた生真面目さだけを打ち出しても、これは勝てる訳はありませんでした。岡田代表は、実はその逆を行くべきなのでしたが、哀しいかな、吉本のようにタレントに言われて素直に洗面器に顔を突っ込むような軽妙さを持ち合わせていなかったのでしょう。小泉首相なら、場所が場所ならそういうことをやりかねない軽妙さを持ち合わせていますね。もっとも、岡田代表がそんなことをやっても、人は誰でも選挙向けのパーフォーマンスであることを見抜き、逆にしらけてしまいますので、要するに持って生まれたものが大切ということなのでしょうか。

選挙というのは何時の場合でも「万人にうける」ことがないと勝てないという一例ですが、吉本は、上の言葉で、相手との関係の距離を測るために、あえて下手にでる、といったいやらしい戦術的意味から、万人にうけようとして発しているのでないことは言うまでもありません。また、そのような姿勢が吉本の生地であるとも、筆者も思っておりません。勢古さんも言うように、自尊心もプライドも沽券もあるはずである。ほっておけば、高く見せたがる自分があるに違いない。物事の本質を衝く力を見せることができる、という自負もあっただろうと思います。筆者もそうですが、人から正統に評価されれば嬉しくなるものです。ましてや実力以上に評価されたり、褒められたりすると、口ではとんでもない、等と言いながらも、内心では心地よく思っている自分が確かにあります。全く、豚もおだてりゃ木に登るの喩え通りのどうしようもない面があるのですね。逆に無視されたり、さらに馬鹿にされたりすると、これまた内心では俺のことを分かっていないどうしようもない奴らだ、等と思いながらも、実は不快でいきりたっている自分がそこにいる訳です。

かといって、吉本のように、出鱈目だとか、低く見られるならいいってことが原則なもんで、とまで自分の視点を落とすことまでは今までできておりませんでした。いや、これからも本心からはできないでしょう。それは、吉本が上記の言葉に加えて、次のようにいっていることとは、似て非なる位置どりですね。

「多少でも物書きを職業にしてきたものにとって、例えば、エッカーマンにたいするゲーテの応答のように、様々な意味で叡智にみちた答えが易しいようで難しい事項について言いあらわせたら、という望みがないわけではない。しかし、わたしのような弱小な物書きには、それは不可能にちかい。易しそうなことについて喋れば、偉大な表現者の口真似になってしまう。それは、所詮はそれだけの資質と器量しかないのだと諦めるほかない。」(「あとがき」『僕ならこう考える』)

あの吉本にしてここまで言わせるのですね。何と自分の心根の卑小で狭隘なことか、これでは見えるものも見えなくなります。ここまで書いてきて、やっと多少は分かった気になりました。世の中は高見から見ても見えないものがあること、人はその高見に登りたがる持って生まれた性癖があることを。地を這うようにしなければ見えないものがあることを。それが思想とか意思を人間が延々と築いてきた意味であるかも知れません。
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