今年の6月、ライプチッヒの公文書館で発見されたというJ.S.Bachの新譜。このニュースには驚いたものですが、1ヶ月ほども前から注文していたエリオット・ガーディナーによるCDが昨日やっと届きました。
ヴィルヘルム・エルンスト公の誕生日のための頌歌
『すべては神とともにあり、神なきものは無し』BWV1127
という名前のついた、ソプラノ、バイオリン、ビオラ、チェロによる声楽と弦楽のための12分20秒の曲でした。
バッハ28歳の時の曲ということですので、多少、バッハに先立つ作曲家の影響が残っておりますが、これは紛れもないバッハです。久々に新しいバッハに触れることができて非常に幸せな気持ちです。実に素朴で美しい曲です。いや、このような言葉ではとても言い表せません。この世の哀切感といったものや、バッハの時代の人々の清らかな生活叙情といったものが、そこはかとなく滲み伝わってくるような曲とでも言ったらよいでしょうか。
しかし、この曲を筆者が若い頃に聴いたとしても、恐らく何の感慨もなく忘れ去ってしまったことでしょう。筆者は、20歳まではクラシック全般とモダンジャズを、そして、20歳以降の37年間はほぼJ.S.バッハのみを聴き続けてきましたが、この作曲家にますます心酔することこそあれ、全く飽きることがありません。もし、1つだけ望みを言えと言われれば、この世での生命が尽きた後もバッハを聴き続けたいと言います。筆者は宇宙の創造者の存在というものを信ずる訳ではありませんが、こればかりはバッハを生んだ天の采配のようなものを感じざるを得ません。この時間の経過と共にバッハに馴染んでいくのはいったい誰の差配なのでしょうか?
もっとも、今読んでいる本にこんな一節がありました。
我が魂よ、不滅の生命を望むでない 可能の限りを尽くせ (ピンダロス)
このピンダロスという人物は初めて耳にしましたが、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』なら聞いたことがあります。その中に、次のようなことが書いてあります。
「理性の活動、すなわち瞑想的な活動は、真摯なる価値において優越しているだけでなく、それ自体を超えたところに目的を求めず、そのものに固有の喜びをもつようだ....そして最高に幸福な人間にあるとされる他の全ての特質は、明らかにこの活動に関わっているので、これこそが人間の完全なる幸福であるということになる。完全な人生の期間を許されるならばの話だが.....。」
ヴィルヘルム・エルンスト公の誕生日のための頌歌
『すべては神とともにあり、神なきものは無し』BWV1127
という名前のついた、ソプラノ、バイオリン、ビオラ、チェロによる声楽と弦楽のための12分20秒の曲でした。
バッハ28歳の時の曲ということですので、多少、バッハに先立つ作曲家の影響が残っておりますが、これは紛れもないバッハです。久々に新しいバッハに触れることができて非常に幸せな気持ちです。実に素朴で美しい曲です。いや、このような言葉ではとても言い表せません。この世の哀切感といったものや、バッハの時代の人々の清らかな生活叙情といったものが、そこはかとなく滲み伝わってくるような曲とでも言ったらよいでしょうか。
しかし、この曲を筆者が若い頃に聴いたとしても、恐らく何の感慨もなく忘れ去ってしまったことでしょう。筆者は、20歳まではクラシック全般とモダンジャズを、そして、20歳以降の37年間はほぼJ.S.バッハのみを聴き続けてきましたが、この作曲家にますます心酔することこそあれ、全く飽きることがありません。もし、1つだけ望みを言えと言われれば、この世での生命が尽きた後もバッハを聴き続けたいと言います。筆者は宇宙の創造者の存在というものを信ずる訳ではありませんが、こればかりはバッハを生んだ天の采配のようなものを感じざるを得ません。この時間の経過と共にバッハに馴染んでいくのはいったい誰の差配なのでしょうか?
もっとも、今読んでいる本にこんな一節がありました。
我が魂よ、不滅の生命を望むでない 可能の限りを尽くせ (ピンダロス)
このピンダロスという人物は初めて耳にしましたが、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』なら聞いたことがあります。その中に、次のようなことが書いてあります。
「理性の活動、すなわち瞑想的な活動は、真摯なる価値において優越しているだけでなく、それ自体を超えたところに目的を求めず、そのものに固有の喜びをもつようだ....そして最高に幸福な人間にあるとされる他の全ての特質は、明らかにこの活動に関わっているので、これこそが人間の完全なる幸福であるということになる。完全な人生の期間を許されるならばの話だが.....。」