今日の「休日のバッハ」は、カンタータ164番「キリストに属すると名乗る者たちよ」よりアルトのアリアです。
歌詞は以下の通り。訳:川端純四郎
『愛と憐れみによってのみ 私たちは神ご自身と等しくなる。
あのサマリア人に等しい心は、他人の痛みを自分の痛みとし、
憐れみに富んでいる。』
アルトは1965年フランス生まれのNatalie Stutzmannです。この人ピアノも弾くようですが、あの小澤征爾ともBWV244のレコーディングをしております。1番多いのが今回のジョン・エリオット・ガーディナーとの録音。
YouTubeで動画がありましたので掲載しておきます。
アルトと言っても、少し低音のコントラアルトになります。それだけに、この動画をよく見ていると、女性というよりは男性に近い風貌に見えますね。しかし紛れもない女性ですが、更によく見ていると、あの髪型といいお顔といい、昔の映画に出てくるイエス・キリストのように見えてくるから不思議。
この曲の歌詞の最初の1行、「愛と憐れみによってのみ、私たちは神ご自身と等しくなる。」は、よく考えてみれば強烈な宗教的メッセージです。
イエス・キリストは、あのゴルゴタの丘で磔刑に処される時、「父よ我を見捨てたもうたか」と叫び息を引き取った訳ですが、これは何を意味するのか?キリストは弟子だけではなく神によっても裏切られたということは、神が無能だったということになりますが、実は、キリスト教は逆説的にこの「神の無能性そのものまでをも肯定してしまう」ことに注目しなければなりません。
いうまでもなくキリストは神であり人間です。父なる神、子であるキリスト、そして聖霊を加えて、この3つを同一とするのがいわゆる三位一体論です。もし聖霊という形で神が人間に直接降臨するのであれば、何故キリストという媒介者が必要だったのか?これは、本来は神と人間は無限の距離を隔てた存在であるという認識なくしては理解は出来ません。しかし、この無限の距離をキリストという媒介者が現れただけでは到底埋められるものではありません。むしろ、キリストの存在そのものが人間と神との一体化を阻む障害となってしまう筈ですね。この障害を取り除く唯一の方法は、神=キリストが死ぬ以外にはないのです。それによって、人間は世界の向こう側に超越的な存在としての神を持つ訳ではなく、神(超越的な存在)が人間に直接に接する状態を招来できたのです。これが聖霊が作用している状態です。ここに至って、聖霊と人間の融合によって信者達の共同性(隣人愛)が、キリストが死んだその身体としての教会に帰結することになります。ヨーロッパの教会に行くと、磔台から降ろされたキリストの死体を絵や彫像にした、いわゆるピエタをよく見かけます。ここまで理解すると、キリスト教がその教義として「隣人愛」に集約した理由も見えてきますね。
そういったことを喚起するのが、今日の「休日のバッハ」のカンタータの曲と歌詞ということになります。そういったことも背景として思い浮かべながらお聴き下さい。
いつものようにここをクリックして、ウィンドウズ・メディア・プレイヤーでお聴き下さい。
歌詞は以下の通り。訳:川端純四郎
『愛と憐れみによってのみ 私たちは神ご自身と等しくなる。
あのサマリア人に等しい心は、他人の痛みを自分の痛みとし、
憐れみに富んでいる。』
アルトは1965年フランス生まれのNatalie Stutzmannです。この人ピアノも弾くようですが、あの小澤征爾ともBWV244のレコーディングをしております。1番多いのが今回のジョン・エリオット・ガーディナーとの録音。
YouTubeで動画がありましたので掲載しておきます。
アルトと言っても、少し低音のコントラアルトになります。それだけに、この動画をよく見ていると、女性というよりは男性に近い風貌に見えますね。しかし紛れもない女性ですが、更によく見ていると、あの髪型といいお顔といい、昔の映画に出てくるイエス・キリストのように見えてくるから不思議。
この曲の歌詞の最初の1行、「愛と憐れみによってのみ、私たちは神ご自身と等しくなる。」は、よく考えてみれば強烈な宗教的メッセージです。
イエス・キリストは、あのゴルゴタの丘で磔刑に処される時、「父よ我を見捨てたもうたか」と叫び息を引き取った訳ですが、これは何を意味するのか?キリストは弟子だけではなく神によっても裏切られたということは、神が無能だったということになりますが、実は、キリスト教は逆説的にこの「神の無能性そのものまでをも肯定してしまう」ことに注目しなければなりません。
いうまでもなくキリストは神であり人間です。父なる神、子であるキリスト、そして聖霊を加えて、この3つを同一とするのがいわゆる三位一体論です。もし聖霊という形で神が人間に直接降臨するのであれば、何故キリストという媒介者が必要だったのか?これは、本来は神と人間は無限の距離を隔てた存在であるという認識なくしては理解は出来ません。しかし、この無限の距離をキリストという媒介者が現れただけでは到底埋められるものではありません。むしろ、キリストの存在そのものが人間と神との一体化を阻む障害となってしまう筈ですね。この障害を取り除く唯一の方法は、神=キリストが死ぬ以外にはないのです。それによって、人間は世界の向こう側に超越的な存在としての神を持つ訳ではなく、神(超越的な存在)が人間に直接に接する状態を招来できたのです。これが聖霊が作用している状態です。ここに至って、聖霊と人間の融合によって信者達の共同性(隣人愛)が、キリストが死んだその身体としての教会に帰結することになります。ヨーロッパの教会に行くと、磔台から降ろされたキリストの死体を絵や彫像にした、いわゆるピエタをよく見かけます。ここまで理解すると、キリスト教がその教義として「隣人愛」に集約した理由も見えてきますね。
そういったことを喚起するのが、今日の「休日のバッハ」のカンタータの曲と歌詞ということになります。そういったことも背景として思い浮かべながらお聴き下さい。
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