団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

冷めた麦飯は、食べづらかったことを覚えています。

2019-03-13 04:03:53 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「麦飯で満腹忘れられず」というタイトルで78歳の男性が投稿されていました。


 2月20日付本欄で83歳の投稿者の「戦時の苦難 忘れないで」を読み、
食糧難だった終戦後がよみがえってきた。

 終戦翌年、私たち家族は旧満州(中国東北部)から日本に帰国した。
待っていたのは信じられないほどの貧困だった。
家族七人には1日2合の配給米では足りなかった。
学校に弁当を持っていくこともできず、毎日空腹で過ごした。

 私が中学生だったとき、既に亡くなっていた母親代わりの長姉が私に
「米を買って来て」と言った。
そこで農家の息子の同級生に頼み、
彼の家族が留守の間を見計らって訪ねた。
米びつには見たこともないほどたくさんの白米があった。
お金と交換に「もう少し、もう少し・・・」とお願いして分けてもらった。

 その夜は米2合と麦8合を合わせて炊いた麦飯だった。
いつもより量が多くて久しぶりに満腹感を味わえた。
米よりも麦が多いため箸からパラパラとこぼれ落ちていった。
でも、あの味は今も忘れない。

 以上です。


 私は物心ついてからこの投稿者さんのような食糧難は経験していないです。
年子の弟がいましたので、ミルクがなくサッカリンを代用として育てたと
父が言っていました。
サッカリンを湯に入れると砂糖のように甘かったです。
サッカリンって後で分かったのですが、有毒だったんですが。(苦笑)

 おばあちゃんがよく言っていました。
農家に着物とお米を交換してもらいに行ったが、農家はなかなかお米をくれなかったと。
いくらでも買手がいたので、売ってくれなかったようです。

 麦飯は小学生の頃食べたことがあります。
白米と違い、栄養があると父親から言われて。

 麦飯って独特の匂いがありますね。
冷めた麦飯は、食べづらかったことを覚えています。
いくら栄養があっても、食べる気が起こりませんね。

 20年前?ぐらいですか。
お米が足りなくて、国がタイ米を輸入したことがありました。
うちの母親は、タイ米は食べたくないと言って白米を食べていました。
戦後の食糧難を経験しているので、もう白米のない生活はこりごりと思ったんでしょうね。

 私は白米がないならパンでの生活でもOKですが、白米が一番安いから
白米にしています。
そんな贅沢を言える良い時代ですね。










天地真理 想い出のセレナーデ
コメント (8)
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