を最近、主な課題としてやっているのだが、ここで「なるほど」と気づいたことがありました。
私のウードの師匠であるアラッ(ディーン)先生は、アラブ音楽界の偉人ファリード・エル・アタラシュのような、ウードを弾きながら歌う人なのですが、彼から習った運指が、歌を歌うときのウードの演奏に実に都合が良いということに改めて気づいたのです。
それとともにナセール・シャンマの運指についても思い出しました。
ナセール・シャンマの学校に2週間ばかし在籍したときも、彼の教える運指というのが、彼流のウード奏法に非常に適していて、いわゆる古典音楽の演奏にはあまり向かないな、なんて感じたことも同時に思い出したりして。
つまり、楽器は所詮道具であって、その音楽に適した演奏法というのが発展していき、その音楽が長い間演奏されていくと、それが伝統になり、それが標準になり・・・・という流れがあるのだな、なんていまさらながら感じたりしたのでした。
ところで、こうやって歌ものをコピっていると、トルコに行ったときに「歌が歌えないと、きっとウードを弾きこなしても、それはまだ半分しか理解してないのだろうな。」という慄然とした感覚も、やっぱり正しかったのだな、なんて、自分の内なる声、というか感覚が正しいということに改めて気づかされました。
つまり、今数曲ほど歌ものをコピーしているのですが、それを行うことで、どうしても今まででは良く分からなかったウード独特のニュアンスが「あぁ、なるほど、この辺のリーシ(撥)の使い方から来るのか。」という風に偶然発見できたりして、別角度からウードという楽器の意味を捉えられて面白いのです。
何の楽器も、基本は歌の添え物なんですね。
伝説的な音楽家のズィリヤブも素晴らしい歌い手で詩人だったそうだし・・・。
ところで、西洋音楽界では、ほとんど脇役のパーカッションが、アラブ音楽では非常に重要な位置にあります。
特にダラブッカ。
トルコに行ったときにつくづく重要な楽器なんだな、と感じたのですが、ダラブッカは、その曲のグルーブを担う上、その音楽そのものを表現する自在なトーンを発することができる楽器なのです。
トルコのダラブッカの先生「ナイル」先生の演奏を数回見ることができましたが、彼のダラブッカ、まるで歌っているように自在なトーンを出していて「ダラブッカって、こうあるべきなんだな。」なんて実感したものです。
もちろん、エジプトのダラブッカの先生であるハミース・ハンキッシュにしても然り、日本にいるダラブッカ奏者のモハメッド・ドムナティも然り。
そのダラブッカの自在なトーンの上に各楽器の旋律とそのデコレーションが絡み付いて、単旋律音楽なのに、豊かなサウンドになる。
ここが、たぶんオリエント音楽のオリエント的特徴なのではないでしょうか?
というわけで、今は特に歌物にも力を入れているのでした。
歌ものはやってて楽しいですね。
きっと今後の私の音楽人生にも彩りを加えるはず、という自分の内なる声に従ってがんばっているこのごろです。