死をも肯定した教育恐ろしい
中学生(東京都 15才)
百田尚樹氏のベストセラー作を映画化した『永遠の0』を見た。
物語のカギとなる特攻隊は、戦闘当時の「国のために命を犠牲にするのは当然」という考え方を、象徴するものといえるだろう。
私が一番驚いたのは、皆が戦死を名誉と考えていただけでなく、死を恐れない者が多くいた、ということだった。
本来、命ある私たちが恐れ避けたいのは、死であるはずだ。
それは、生きていく中で学ぶだけでなく、本能的なものではなかろうか。
その本能すら抑制する時代は、本当に怖いと思った。
教育によって培われた『共通認識』は、本能までも変えてしまうのか。
それは、教育という名の、洗脳だったのかもしれない。
教育で、皆に強要することで、非常識が常識になってしまう。
その結果、戦争で人命を軽んじた日本では、多くの命や、未来への希望が失われた。
今の平和が、戦争を生きた人々の、苦労の上にあることを胸にとどめ、同じ過ちを決してくり返してはならない、と感じた。
↑以上、書き出しおわり
15才の中学生のこの感想と比べ、この男の口から出る言葉の、意味の無いことといったら……。
けれども権力があるだけに、それがまかり通ってしまうという恐ろしさを、ひしひしと感じます。
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そして、このパンフレット。
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それをツィートで紹介してくださった方が、こんな感想を述べておられました。
悪趣味としか言いようがない「平和の島プロジェクト」の回天グッズたち。
例のカレーは「回天をイメージした黒カレー」と「回天烈士の燃えるような想いを表現した赤カレー」だそう。
とにかく特攻を美化し、観光資源にしたいらしい…。
ほんで結局、「特攻の島 海軍カレー」とか作って売ってしまう…なんて薄っぺらい「平和の島」やねん。
平和の島プロジェクトの回天研修プログラムちゅうやつの「回天を通して、礼儀作法、規律、日本人としての誇りなどを学ぶ」みたいな文章、
これはほんまに腸が煮えくり返りそうになる。何がどうなったらそうなんねん…。
徳山駅の回天パネル横の説明文。
何が「平和の島」プロジェクトやねん??何が「すきだ」やねん。
勝てもせん戦をはじめて、馬鹿げた作戦で若い命を無駄に捨てさせたってことを完全に無視して、なにが「平和への道しるべ」やねん。
そしてこれは、別の方の感想。
周南観光コンベンション協会が主催した「平和の島プロジェクト」。
〈回天〉という負の過去の遺産を対象に、ダークツーリズムを通しての〈街おこし〉を図った。
ただ、有名漫画家のイラストを使い、食材グッズとかけあわせるという、典型的な広告代理店的手法が、その意図にふさわしいか。
大いに疑問。
↑以上、転載おわり
では、回天とはなにか?
詳しく説明してくださっているページを見つけましたので、転載させていただきます。
↓以下、転載はじめ(文字の強調はわたしの考えで行いました)
人間魚雷・悲劇の作戦
~回天特別攻撃隊~
山口県周南市大津島。
太平洋戦争の末期、海軍が開発したある秘密兵器が、次々と運び込まれた。
その兵器に乗るために、全国から、400人の若者たちがやってきた。
秘密兵器の搭乗員を募集するとだけ聞いて、志願してきたという。
秘密兵器人間魚雷回天。
人間もろともに体当たりし、命と引き換えに敵艦を沈める、極限の兵器である。
搭載された爆薬は、空母をも沈められる破壊力を持つといわれた。
出撃すると、二度と生きては帰れない。
終戦までに、104人もの搭乗員が、海に散っていった。
太平洋戦争末期に行われた、海の中の特攻、人間魚雷回天の真相に迫る。
◆特攻兵器・人間魚雷回天の誕生
昭和17年6月、ミッドウエイ海戦以降、各地で日本軍は、敗北を重ねていく。
そうした中、海軍は、史上類を見ない、新たな兵器の採用が検討されていた。
必死必殺戦法、搭乗員の命と引き換えに、戦局を打開しようという、いわゆる特攻作戦である。
生きて帰れない兵器を採用することに対し、当初海軍上層部には、強いためらいがあった。
昭和19年2月、海軍は、人間を乗せた新型魚雷の開発に踏み切る。
搭乗員が生存できる可能性を残すため、脱出装置をつけることが条件だった。
しかし戦局の悪化とともに、開発が難しい脱出装置は、断念された。
搭乗員の命を犠牲にすることを前提とした兵器、人間魚雷の誕生である。
瀬戸内海にある大津島に、回天の訓練基地が作られた。
全国から集まった、400人の若者たち。
志願したのは、海軍兵学校や予科練の出身者たちだった。
若者たちは、ここで初めて、新兵器の全貌を知ることになる。
人間魚雷回天、前方部分につめられた爆薬は、それまでの魚雷の3倍に相当し、空母を沈められるとされた。
操縦席には、自爆装置がついていた。
気を失って前傾姿勢になれば、爆発する仕組みになっていたのである。
たとえ命中しなくても、二度と戻ってはこられない兵器だった。
元搭乗員1:
「覚悟はしていたけど、やっぱりギョッとしましたね」。
元搭乗員2:
「いずれ死ぬんだと思うからね。早いか遅いかの違いだけど」。
通常、回天はハッチを閉めると、操縦席は、電球一つの暗い空間だった。
身動きの取れない密室で、回天を操るのは、困難を極めた。
回天は、水深5mで航行して、目標に接近、一度浮上して、目標物の位置を確認する。
この時、敵から発見されないように、わずかな時間で確認することが求められた。
その後、何も見えない中、コンパスと時計だけを頼りに、突き進むのである。
訓練では、海中に突入したり、エンジンが止まるなど、事故が続出。
実戦を前に、15名が命を落とした。
元搭乗員1:
「潜望鏡を上げたまま浮上して船の底にぶっつけて潜望鏡が折れる。折れると根元が開き、水が入って沈む。溺死です」。
元搭乗員2:
「訓練即、死と隣り合わせです。大津島に近づいたとき、エンジンが爆発して沈没しました。太平洋だったら、1000mから2000mの海底に鎮座しておさらばでしょうね」。
◆回天の目標到達は至難の業
昭和19年10月、劣勢の日本海軍は、捨て身の一大決戦を挑む。
フィリピンのレイテ沖海戦で、アメリカ艦隊に、全戦力を突入させる。
しかし、日本軍は大敗北、連合艦隊は、事実上壊滅した。
この後、回天は、海軍に残された数少ない切り札として、強い期待を背負うようになる。
レイテ沖海戦から2週間後の12月8日、初の回天隊が出撃した。
目標地域は、アメリカの前進基地となっている、南太平洋のウルシーである。
標的は、環礁に停泊している、アメリカの艦隊だった。
潜水艦が接近し、搭載されていた回天が、次々と出撃した。
しかし、目標に到達するのは、至難の業だった。
搭乗員には、詳細な地図も、敵艦隊に関する情報も、殆んどなかったからである。
元隊員:
「まず一番難しいのは、真っ暗な時に、どうやって水道まで行くか。
入るのにコンパスだけだから、特眼鏡を上げてもわかりませんよ。
地理だって初めてですよ。
何回も来ている人だったら、多少違うかもしれない。
難しすぎるんですよ」。
アメリカ側が撮った、当時の写真である。
回天の突入で、炎上するタンカー。
9人の命と引き換えに挙げた戦果は、この一隻だけだった。
その後も、同様の奇襲作戦が行われたが、戦果はほとんど挙がらなかった。
作戦の失敗にもかかわらず、大津島では、残された隊員たちが沸き立っていた。
大本営は、回天隊は多大な戦果を挙げた、と華々しく発表したのである。
空母2隻、戦艦3隻轟沈などと。
当時大津島で訓練していた隊員:
「この時は、一隻しか沈めていないとは知らなかった。
回天が、5本とも戦果を挙げた事になっているんだから。
我々も、回天の威力たるや予想通りだと、意気に燃えたというところでしょうね」。
出撃を待つ日々を語る隊員1:
「何しろ、次から次へと出撃していくと、飯食う人間が、5人、6人と減っていく。
そうすると、飯食うのも侘しくなって、これは早く出ないと。
悲しみとか死なんて、お互い語り合うこともない。
これが当たり前だと受け入れていた」。
隊員2:
「精神的に悩むときは、軍歌を歌って慰めた。
あとは山に行って、軍刀で、竹や木を憂さ晴らしに斬ってみたりして、自分の精神を癒していた」。
潜水艦上の回天
◆死を目前に待機する、若者たちの心の葛藤
昭和18年10月学徒出陣。
その中から、回天の搭乗員になった若者も多くいた。
塚本さんは、慶応大学在学中に、海軍に入隊、その後志願して、回天の搭乗員となり、ウルシー沖で戦死した。
塚本さんの手記が、残されていた。
そこには、回天隊に志願したときの心情が、綴られていた。
「俺が待っていたのは、この兵器だ。どうしても俺はこれに乗る」。
この兵器とは、人間魚雷回天。
その反面、自分の決意が揺らぐ気持ちも、綴られている。
訓練生活で、塚本さんは、迷う心を断ち切ろうとする。
「人間は弱い。自己を思うからだ。滅私、完全なる滅私生活へ。母を忘れよ」。
昭和19年11月、塚本さんの出撃が決まる。
出撃が決まると、搭乗員たちは、最後の帰省が許された。
しかし、回天の任務を話すことは、固く禁じられた。
家族水入らずの時間は、一年ぶりだった。
戦後、塚本さんの遺品の中から、家族に当てた録音が見つかった。
「母よ、妹よ、そして、長い間育んでくれた町よ、学校よ、さようなら。
本当にありがとう。
昔は懐かしいよ。
秋になれば、お月見だといって、あの崖下に、ススキを取りに行ったね。
あそこで転んだのは誰だっけ。
こうやって、みな愉快に、いつまでも暮らしたい」。
塚本さんの弟さんは、出撃を控えた兄の顔が、今でも焼きついているという。
「死期はわかっていることです。
それまで死ぬ訓練をしなければならないのは、並大抵の精神力ではできないと思う」と。
後に、弟さんに、遺品のハンカチが届けられた。
「兄貴がついているぞ。がんばれ。親孝行を頼む」。
昭和20年1月、塚本さんは、共に出撃した回天隊18名と共に、命を落とした。
「愛する人々の上に、平和の幸を輝かせるためにも」。
海軍に入隊してから一年、書き続けた日記の、最後の言葉であった。
◆一層成果が上がらなくなる回天作戦
昭和20年4月、アメリカ軍が沖縄に上陸。
既に壊滅状態に陥っていた海軍は、船も航空機も、残されたわずかな戦力のすべてを、特攻につぎ込もうとする。
しかし、回天の奇襲作戦は、日を追うごとに、戦果が挙がらなくなっていた。
駆逐艦による警備を整備するなど、アメリカ軍が、対策を万全にしたからである。
停泊地に近づくことさえできなかった。
回天作戦は、修正を余儀なくされた。
停泊中の艦船を襲うのではなく、アメリカ軍の補給路で、潜水艦が待ち伏せし、航行中の船を狙うことにしたのである。
標的が動いているため、命中率が低い、難しい作戦だった。
昭和20年5月、航行中の艦船を狙う新たな作戦のもと、回天振武隊が出撃する。
搭乗員は5人、大津島で半年間、寝食を共にしてきた仲間だった。
彼らが乗り込んだのは、伊号367潜水艦だった。
二度と生きて帰ることのできない、回天作戦。
出撃の判断は、潜水艦の艦長に一任されていた。
軍医長は、艦長から、悩みを打ち明けられていた。
「司令部から、回天は魚雷だと思って使え、と言われているが、若い者を乗せて、そういう気にはなれない」と。
当時海軍によって撮影された、潜水艦内部の映像がある。
温度が30度を超える狭い艦内で、100人を超える乗組員が、任務についていた。
この中で、搭乗員は、出撃までの時間を過ごした。
「暑いの何のって、褌一丁で。
朝だか昼だか夜だかわからない。いらいらしてくる」。
伊367潜水艦が出撃してから10日程後、前方に、アメリカ艦隊を発見した。
「回天用意」の号令と共に、5人が回天に乗り込んだ。
5人は、艦長の言葉に耳を澄ませて、出撃の瞬間を待っていた。
「最初の回天戦用意の号令がきたときは、緊張したね。
いよいよ来たかと。
2,30分経ってから、遠すぎて、回天戦ができないとの命令。
ほんとに緊張したね」。
「回天戦用意で、今日死ぬかと思っても、1時間以上待って、回天を下りろだ。
緊張が毎日のようにあって、死ねない。
早く何とかしてくれという感じ、つらくて。」
回天戦用意の号令が下っても、出撃停止になることが、その後も繰り返された。
出撃して3週間後、伊367潜水艦は、再びアメリカの船団を発見、回天戦用意の号令。
ついに、5人に出撃命令が下される。
ところが、回天は、基地を離れて1ヶ月近く経っていたため、十分整備ができず、故障で出撃できないものがあった。
エンジンがかからなかった岡田さんは、仲間の千葉さんの出撃を見送った。
「用意、撃てー」で、千葉のバンドが外れ、回天がスーッと出て行った。
出撃できたのは、二人だけだった。
岡田さんは、
「その時は自分が情けなかったね。
後ろを見たら、2号艇が未だ残っている。
帰るのは俺だけでないと、ほっとしたね」。
岡田さんたちが、回天の爆発音を聞いたのは、予想された突入時間よりも、かなり後の事だった。
「40分経っての爆発音。
40分経ったら、中の酸素がぎりぎりだもの。
とても成功したとは思えない。
あれは自爆だ」。
それを艦長が聞いて、「俺は、若い男を無駄死にさせた」と自棄になっていた。
回天の潜望鏡
回天を載せた潜水艦
◆特攻兵器人間魚雷作戦と人間の死
大本営
昭和20年6月までに、回天が撃沈した艦船は、アメリカ軍の資料によれば、わずか2隻。
しかし、日本軍はなお、特攻を続ける。
海軍軍令部総長は、御前会議で、海軍は特攻精神に徹すると主張。
特攻作戦は終戦まで続けられ、若い命が、次々と犠牲になっていった。
終戦間際に、南太平洋で生き残った竹林さん
「戦時下ベッドの上下にいるときに、故郷という歌の中で”何時の日か帰らん”とあるが、俺たちにはないな。
その言葉を聞くたびに、胸にじんと来る」と。
初の回天隊が出撃した11月、大津島では毎年、追悼式が行われている。
大津島での追悼式へ
生き残った搭乗員たちは、戦後64年間、仲間の死と向き合ってきた。
回天の故障のため、出撃できなかった岡田さんは、
「この二人とも、今日はお別れでね、お供えした酒を、これから一緒に飲もうと思ってね。
日本は、ほんとに、人間の命を粗末にした国だったね。
自分で志願したとはいえ」。
戦死した二人への追悼
「こうして生きさせてもらっていること自体、不思議でならない。
自分で弾があたるまで、舵とって進んで死ぬのは、人間くらいしかないよね」。
戦局を挽回するとうたわれた、特攻兵器「人間魚雷回天」。
作戦の開始から9ヶ月、撃沈した敵艦は、確認されているだけで3隻。
回天で命を落とした若者は104名。
所感:
人間もろとも体当たりし、命と引き換えに敵艦を沈めようとする、極限の兵器、人間魚雷回天。
太平洋戦争末期、敗北を重ねた日本海軍が考え出した、究極の海の特攻作戦だったが、
アメリカ軍の防御体制の整備と共に、思うように成果が挙がらなかった。
考えてみれば、これは、人間の命を犠牲にした、苦し紛れの戦法といえるだろう。
9ヶ月間で、撃沈した敵艦は3隻、命を落とした若者は104名にのぼるとは…。
故障のため出撃できなかった隊員が、日本ほど人間の命を粗末にした国はないだろう、といっているのは当然である。
世界におけるテロ組織が、現在でも自爆テロを行っているという。
国家外交の一つの手段として行う戦争と、暴力やその脅威による思想提示手段として行うテロとは、基本的に異なる。
とは言え、太平洋戦争末期の日本が、そのような発想の先鞭をつけたと言われても、弁解の余地がない気がする。