続きです。
私たちは、取材で浮かび上がった情報を、CGにしてみました。
揚子江岸に建っていた、中国軍の海軍施設です。
16日の昼間、日本兵がやって来て、コンクリートの壁に、いくつもの穴を空けました。
そこに機関銃を設置。
銃口は、揚子江側に向けられています。
そして、夕暮れを待ちます。
あの上等兵の日記には、
『捕虜せし支那兵の一部5千名を、揚子江の沿岸に連れ出し』
《声》歩兵第65聯隊元第三機関銃隊兵士:
「捕虜が、歩かされてやってきたんですよ、夕方暗くなってきて」
後ろ手に縛られた捕虜たち。
揚子江とトーチカのようになった建物に挟まれ、逃げ場はありません。
そして、合図で始まる一斉射撃。
山砲兵第19聯隊上等兵の日記
『その後、銃剣にて、思う存分に突き刺す』
『一人残らず殺す』
翌17日が、河川敷での銃殺でした。
河原には、鉄条網が張られました。
外側に砂を盛って台座が作られ、機関銃が並べられます。
機関銃の上にはシートが、聯隊本部と連絡する野戦電話も引かれました。
辺りが暗くなり、やがて捕虜たちが到着。
そして、岸辺に用意された2本の松明に、火が灯されます。
《声》歩兵第65聯隊・元第一機関銃隊二等兵
「合図があったわけだ。一斉にもう、機関銃撃ったんだから」
機関銃同士の相打ちを防ぐために、この松明の間を狙って、引き金を引いたといいます。
伍長のスケッチの余白には、この時の、
『撃たれまいと、人から人へと登り集まる様、即ち人柱は、丈余(3メートル以上)になっては崩れ、なっては崩れした。
その後、片っぱしから突き殺して、夜明けまでそのところに石油をかけて燃やし、柳の枝を鍵にして、一人一人引きずって、河の流れに流したのである』
揚子江の岸辺が処刑場に選ばれたのは、多くの死体を処理するためだった、といいます。
揚子江で起きた銃殺での犠牲者の、正確な総数は、今もはっきりとはしていません。
戦後になって、
「捕虜を解放するために、揚子江岸に連行したが、暴動を起こされたので、やむなく銃撃した」
という証言が、為されたことがあります。
しかし、小野さんが31人から集めた、戦中の一次資料には、解放するという話は全く書かれていませんでした。
捕虜の銃殺。
地元の南京では、直接事件を知る人を見つけることは、できませんでした。
ところが、揚子江沿いで、銃殺を目撃したという日本人が、大阪に居ることがわかったのです。
南京での銃殺を目撃したという、96歳の男性。
当時18歳だったこの男性は、海軍兵士として南京戦に参加した際に、揚子江岸での銃殺を目撃したといいます。
「12月18日というのは、あのー、午後の2時頃に、突然、機関銃の射撃音が響いてきて、河川敷の中に、火を噴く機関銃と、倒れてワイワイ…』
これまで確認できた処刑場所は、2箇所でした。
そして、海軍兵士が見た18日以降の場所は、この辺り。
銃殺は、揚子江沿いの幾つかの場所で、行われていたことになります。
「銃殺は連日続いていた」と、この男性は言います。
しかしなぜ、海軍兵士が南京に居たのでしょうか。
「『海風』がある。これがその時の」
「あ、船ですか」
第24駆逐隊の海風。
男性は、この駆逐艦で、信号兵をしていたと言います。
あまり知られてはいませんが、海軍は揚子江をさかのぼり、南京戦に参加していたのです。
防衛省が保管している、海軍の公式記録にも、海風が。
海軍兵士は、駆逐艦の上から、こんな光景も目にしていました。
「南京の上海で停泊中、その時に、いかだに死体の山を積んだのが、4隻流れてきました」
いかだについては、軍の公式記録にも記載されていました。
『敗残兵、南京上流よりいかだにて逃走せんとす』
駆逐艦から銃殺を目撃したのは、その二日後だといいます。
「いわゆる陸軍のね、重機関銃の銃座が片っぽにあって、河川敷にトラックで運ばれてきた、25人か30人程度の人が、重機関銃の標的にされて、撃ち殺されてたということですね」
「はじめはダダダンダダダンダダダンと、やがてはタタタンタタタン、タン、タン、タンともう、
残り少なくなったら、弾は一発でボン、ボンと、狙い打ちしているようなのが、音聞いてわかるというふうに慣れてしまった」
男性は、南京での戦いを終え、長崎県の佐世保へ戻ると、海軍士官から、ある注意を受けたと言います。
「『南京で見たことは、決して口外するな』ということを注意されましたね」
南京事件は、戦後になって表面化しましたが、78年が経った今も、論争が絶えません。
私たちは、捕虜の銃殺に関わった部隊の記録や、目撃者の取材を行ってきました。
現地では、被害者側の声を聞くことにしました。
南京市政府から、事件の被害者とされる中国人を、3人紹介されました。
被害者として来日し、講演をしたこともあります。
一人目は、当時10歳だったという男性。
親戚や近所の住民などと、店の地下に隠れているところに日本兵が来た、といいます。
余昌祥さん(88):
「おじを含む若者たちは、上に隠れていましたが、日本軍が来て、7人が殺されました」
二人目は、当時13歳だったという男性。
チン(草冠に今)洪桂さん(91)。
日本兵によって住んでいた家が放火され、中に居た幼い弟が死んだ、というのです。
私たちは、二人の証言について、裏付け取材を試みましたが、当時の状況はすでに大きく変わり、他の目撃者も見つかりませんでした。
三人目の女性は、1928年生まれのアイ(草冠に又のような漢字)義英さん。
9歳の時、農民だった父親と親戚を、殺害されたといいます。
「村人が、日本軍を歓迎すると言い出しました。
日本軍と握手をしましたが、関係なく殺されました。
日本軍は、村の広場に村人を一列に並ばせて、機関銃で十数人、射殺しました」
翌日、村に再び日本兵が現れ、アイさんの父親を連れ去った、といいます。
「父は、首を刺されて死んでいました。顔は血だらけでした。
叔父も死んでいました。
私は、父の手をずっと握って、泣いていました」
日本兵の仕打ちは、それだけではなかった、といいます。
「若い娘を見つけたら、強姦します」
親戚の女性も連れて行かれ、強姦されたと訴えました。
現在は、南京中心部に住んでいるというアイさん。
日本軍が来た時に暮らしていたのは、郊外の許巷村だったといいます。
これまで私たちが取材してきた、揚子江の銃殺とは別の場所です。
南京市政府担当者と別れた私たちは、単独で、事件があったという許巷村へ。
南京の中心部から、直線距離でおよそ45キロ。
田園風景が広がる場所に、村はありました。
取材開始から一時間後、
「なんか今、おじいさんが、おじいさんが来てね」
この村で暮らす男性。
彼は、村で起きた事件のことを、聞いたことがある、というのです。
「どこですか?どこで殺されましたか?」
「あそこです」
「村の年寄りが、『旗を持って日本兵を迎えに行こう』と、村人に呼びかけていました」
「日本兵は、子どもたちには手を出しませんでした。
しかし、若い村人たちは、縛られて裸にされ、殺されました」
「一般の方がここで、射殺されたということですね」
「民間人です。農民です」
「兵隊ではない、農民の方」
日本兵を歓迎した農民たちが殺された。
それは、アイさんが語った内容と同じでした。
取材を続けると、村人たちが集まってきました。
そして、アイさんは昔この辺りに住んでいた、村のはずれに一家の墓がある、と教えてくれました。
「アイ・イーインは、私の叔母さんです」
「お墓を案内してもらえる」
「そんなに遠くありません」
男性は、私たちがインタビューしたアイさんの、親戚だといいます。
村のはずれに建つ、一族の墓。
墓石は近年作られたものだそうです。
78年が経った今、たどり着けたのはここまででした。
民間人の殺害。
それは、当時海外メディアにより、指摘されていました。
南京の特派員たちが、報じていたのです。
そして、現在の日本政府も、非戦闘員の殺害や、略奪行為等があったことは否定できない、という公式見解を示しています。
南京陥落時、中国兵の中には、軍服を脱ぎ捨て、民間人に紛れ込む者もいたとされます。
日本軍は、そんな、兵隊と民間人の区別が出来なかったり、あるいはほとんどしないまま、殺害した例もあるといいます。
私たちの手元にある、一枚の写真。
防寒着姿で倒れている、多くの人々。
これが南京で撮られたものならば、後ろの河は揚子江と考えられます。
調べる手がかりは、後方に写っている、特徴的な二つの山の稜線。
そして右手には、なだらかな丘陵が続いています。
対岸に、似た地形がありました。
戦争を振り返る時、日本人は、自分たちを被害者として考えることがあります。
しかし、多くの命を奪ったという一面も、忘れてはなりません。
歴史を踏まえ、これからどう進んでいくべきか、今、問われています。
↑文字起こし終わり
わたしは、今の夫と暮らし始めたことで、違う国々の人たちと話す機会が多くなって初めて、この南京事件のことを知りました。
その時にはもう、30代の後半に差し掛かっていました。
ひょんなことから、南京のことが話題に上がり、その時わたしは無邪気に、「え?なんのこと?」と口にしたのでした。
その途端、普段はとても優しくて、ひょうきんな台湾人のジョイが、顔を真っ赤にして叫んだのでした。
「どうして知らないの?そんないい年をして、どうして知らないの?」
今にも掴みかかってくるほどの勢いで、目には涙がたまっていました。
わたしは本当に驚いて、それから家にすっ飛んで帰り、慌ててそのことについて調べるために、図書館に走って行ったのを覚えています。
今からもう20年近く前のことです。
わたしは、同じく戦争犯罪に当たる原爆投下による被害については、幼い頃から興味を持ち、同じように図書館に通っては調べたりする子どもでした。
そして、調べれば調べるほど、このような惨たらしい殺戮が仕事であり、目的となる戦争、軍隊、そして軍産複合体の存在を、憎々しく思ってきました。
でも、基本は、犠牲者としてのもので、加害者としての認識は、あまり強いものではありませんでした。
理不尽に奪われた命。
それが数人なら、数十人なら、数百人なら、数千人なら、数万人なら、数十万人なら、数百万人なら…。
戦争は人や生き物を殺し、町や村や自然を破壊し、終わった後も膿を出し続けます。
そんなとてつもない暴力を、研究し、計画し、命令し、それに従えるだけの人間としての心の破壊をし、実行に移すことが、どうして罪に問われないのでしょう。
こんなひどい犯罪が、どうして戦争という名の元に、やらなくてはいけないことのような嘘が、まかり通っているのでしょう。
戦争は犯罪であり、戦争を指令した者はみな罪人として、その結果がどうであれ、勝った側も負けた側も、どちらも極悪罪人として裁きを受けるよう、法律を作るべきだと思います。
さて、最後に、こんなことを言っている人がいます。
署名を募っているのだそうです。
「そもそも、南京大虐殺など無かった」と…。
さらに、自民党の原田義昭・国際情報検討委員会委員長が、
「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国はいまや否定しようとしている時にもかかわらず、(中国が)申請しようとするのは承服できない」などと発言したり、
二階俊博・自民党総務会長が、
「ユネスコが『(南京事件で)日本は悪い』というなら、ユネスコの資金はもう日本は協力しないと言えないとしょうがない」と言っていて、
そしてさらに、安部首相本人が、昨年、特攻隊資料を記憶遺産申請の手続きに入るようにと、自ら指示をしていました。
ちなみに、この世界記憶遺産の文部科学省の担当者は、籾井勝人・NHK会長の娘である籾井圭子氏です。
もうこのような愚かなことを言う大人が、この先どんどんと減っていく日本であることを、心から願っています。
そのためにもわたしたちは、とんでもない『歴史修正に熱心』で、浅はかな言動を繰り返す政権を、必ず倒さなければなりません。
私たちは、取材で浮かび上がった情報を、CGにしてみました。
揚子江岸に建っていた、中国軍の海軍施設です。
16日の昼間、日本兵がやって来て、コンクリートの壁に、いくつもの穴を空けました。
そこに機関銃を設置。
銃口は、揚子江側に向けられています。
そして、夕暮れを待ちます。
あの上等兵の日記には、
『捕虜せし支那兵の一部5千名を、揚子江の沿岸に連れ出し』
《声》歩兵第65聯隊元第三機関銃隊兵士:
「捕虜が、歩かされてやってきたんですよ、夕方暗くなってきて」
後ろ手に縛られた捕虜たち。
揚子江とトーチカのようになった建物に挟まれ、逃げ場はありません。
そして、合図で始まる一斉射撃。
山砲兵第19聯隊上等兵の日記
『その後、銃剣にて、思う存分に突き刺す』
『一人残らず殺す』
翌17日が、河川敷での銃殺でした。
河原には、鉄条網が張られました。
外側に砂を盛って台座が作られ、機関銃が並べられます。
機関銃の上にはシートが、聯隊本部と連絡する野戦電話も引かれました。
辺りが暗くなり、やがて捕虜たちが到着。
そして、岸辺に用意された2本の松明に、火が灯されます。
《声》歩兵第65聯隊・元第一機関銃隊二等兵
「合図があったわけだ。一斉にもう、機関銃撃ったんだから」
機関銃同士の相打ちを防ぐために、この松明の間を狙って、引き金を引いたといいます。
伍長のスケッチの余白には、この時の、
『撃たれまいと、人から人へと登り集まる様、即ち人柱は、丈余(3メートル以上)になっては崩れ、なっては崩れした。
その後、片っぱしから突き殺して、夜明けまでそのところに石油をかけて燃やし、柳の枝を鍵にして、一人一人引きずって、河の流れに流したのである』
揚子江の岸辺が処刑場に選ばれたのは、多くの死体を処理するためだった、といいます。
揚子江で起きた銃殺での犠牲者の、正確な総数は、今もはっきりとはしていません。
戦後になって、
「捕虜を解放するために、揚子江岸に連行したが、暴動を起こされたので、やむなく銃撃した」
という証言が、為されたことがあります。
しかし、小野さんが31人から集めた、戦中の一次資料には、解放するという話は全く書かれていませんでした。
捕虜の銃殺。
地元の南京では、直接事件を知る人を見つけることは、できませんでした。
ところが、揚子江沿いで、銃殺を目撃したという日本人が、大阪に居ることがわかったのです。
南京での銃殺を目撃したという、96歳の男性。
当時18歳だったこの男性は、海軍兵士として南京戦に参加した際に、揚子江岸での銃殺を目撃したといいます。
「12月18日というのは、あのー、午後の2時頃に、突然、機関銃の射撃音が響いてきて、河川敷の中に、火を噴く機関銃と、倒れてワイワイ…』
これまで確認できた処刑場所は、2箇所でした。
そして、海軍兵士が見た18日以降の場所は、この辺り。
銃殺は、揚子江沿いの幾つかの場所で、行われていたことになります。
「銃殺は連日続いていた」と、この男性は言います。
しかしなぜ、海軍兵士が南京に居たのでしょうか。
「『海風』がある。これがその時の」
「あ、船ですか」
第24駆逐隊の海風。
男性は、この駆逐艦で、信号兵をしていたと言います。
あまり知られてはいませんが、海軍は揚子江をさかのぼり、南京戦に参加していたのです。
防衛省が保管している、海軍の公式記録にも、海風が。
海軍兵士は、駆逐艦の上から、こんな光景も目にしていました。
「南京の上海で停泊中、その時に、いかだに死体の山を積んだのが、4隻流れてきました」
いかだについては、軍の公式記録にも記載されていました。
『敗残兵、南京上流よりいかだにて逃走せんとす』
駆逐艦から銃殺を目撃したのは、その二日後だといいます。
「いわゆる陸軍のね、重機関銃の銃座が片っぽにあって、河川敷にトラックで運ばれてきた、25人か30人程度の人が、重機関銃の標的にされて、撃ち殺されてたということですね」
「はじめはダダダンダダダンダダダンと、やがてはタタタンタタタン、タン、タン、タンともう、
残り少なくなったら、弾は一発でボン、ボンと、狙い打ちしているようなのが、音聞いてわかるというふうに慣れてしまった」
男性は、南京での戦いを終え、長崎県の佐世保へ戻ると、海軍士官から、ある注意を受けたと言います。
「『南京で見たことは、決して口外するな』ということを注意されましたね」
南京事件は、戦後になって表面化しましたが、78年が経った今も、論争が絶えません。
私たちは、捕虜の銃殺に関わった部隊の記録や、目撃者の取材を行ってきました。
現地では、被害者側の声を聞くことにしました。
南京市政府から、事件の被害者とされる中国人を、3人紹介されました。
被害者として来日し、講演をしたこともあります。
一人目は、当時10歳だったという男性。
親戚や近所の住民などと、店の地下に隠れているところに日本兵が来た、といいます。
余昌祥さん(88):
「おじを含む若者たちは、上に隠れていましたが、日本軍が来て、7人が殺されました」
二人目は、当時13歳だったという男性。
チン(草冠に今)洪桂さん(91)。
日本兵によって住んでいた家が放火され、中に居た幼い弟が死んだ、というのです。
私たちは、二人の証言について、裏付け取材を試みましたが、当時の状況はすでに大きく変わり、他の目撃者も見つかりませんでした。
三人目の女性は、1928年生まれのアイ(草冠に又のような漢字)義英さん。
9歳の時、農民だった父親と親戚を、殺害されたといいます。
「村人が、日本軍を歓迎すると言い出しました。
日本軍と握手をしましたが、関係なく殺されました。
日本軍は、村の広場に村人を一列に並ばせて、機関銃で十数人、射殺しました」
翌日、村に再び日本兵が現れ、アイさんの父親を連れ去った、といいます。
「父は、首を刺されて死んでいました。顔は血だらけでした。
叔父も死んでいました。
私は、父の手をずっと握って、泣いていました」
日本兵の仕打ちは、それだけではなかった、といいます。
「若い娘を見つけたら、強姦します」
親戚の女性も連れて行かれ、強姦されたと訴えました。
現在は、南京中心部に住んでいるというアイさん。
日本軍が来た時に暮らしていたのは、郊外の許巷村だったといいます。
これまで私たちが取材してきた、揚子江の銃殺とは別の場所です。
南京市政府担当者と別れた私たちは、単独で、事件があったという許巷村へ。
南京の中心部から、直線距離でおよそ45キロ。
田園風景が広がる場所に、村はありました。
取材開始から一時間後、
「なんか今、おじいさんが、おじいさんが来てね」
この村で暮らす男性。
彼は、村で起きた事件のことを、聞いたことがある、というのです。
「どこですか?どこで殺されましたか?」
「あそこです」
「村の年寄りが、『旗を持って日本兵を迎えに行こう』と、村人に呼びかけていました」
「日本兵は、子どもたちには手を出しませんでした。
しかし、若い村人たちは、縛られて裸にされ、殺されました」
「一般の方がここで、射殺されたということですね」
「民間人です。農民です」
「兵隊ではない、農民の方」
日本兵を歓迎した農民たちが殺された。
それは、アイさんが語った内容と同じでした。
取材を続けると、村人たちが集まってきました。
そして、アイさんは昔この辺りに住んでいた、村のはずれに一家の墓がある、と教えてくれました。
「アイ・イーインは、私の叔母さんです」
「お墓を案内してもらえる」
「そんなに遠くありません」
男性は、私たちがインタビューしたアイさんの、親戚だといいます。
村のはずれに建つ、一族の墓。
墓石は近年作られたものだそうです。
78年が経った今、たどり着けたのはここまででした。
民間人の殺害。
それは、当時海外メディアにより、指摘されていました。
南京の特派員たちが、報じていたのです。
そして、現在の日本政府も、非戦闘員の殺害や、略奪行為等があったことは否定できない、という公式見解を示しています。
南京陥落時、中国兵の中には、軍服を脱ぎ捨て、民間人に紛れ込む者もいたとされます。
日本軍は、そんな、兵隊と民間人の区別が出来なかったり、あるいはほとんどしないまま、殺害した例もあるといいます。
私たちの手元にある、一枚の写真。
防寒着姿で倒れている、多くの人々。
これが南京で撮られたものならば、後ろの河は揚子江と考えられます。
調べる手がかりは、後方に写っている、特徴的な二つの山の稜線。
そして右手には、なだらかな丘陵が続いています。
対岸に、似た地形がありました。
戦争を振り返る時、日本人は、自分たちを被害者として考えることがあります。
しかし、多くの命を奪ったという一面も、忘れてはなりません。
歴史を踏まえ、これからどう進んでいくべきか、今、問われています。
↑文字起こし終わり
わたしは、今の夫と暮らし始めたことで、違う国々の人たちと話す機会が多くなって初めて、この南京事件のことを知りました。
その時にはもう、30代の後半に差し掛かっていました。
ひょんなことから、南京のことが話題に上がり、その時わたしは無邪気に、「え?なんのこと?」と口にしたのでした。
その途端、普段はとても優しくて、ひょうきんな台湾人のジョイが、顔を真っ赤にして叫んだのでした。
「どうして知らないの?そんないい年をして、どうして知らないの?」
今にも掴みかかってくるほどの勢いで、目には涙がたまっていました。
わたしは本当に驚いて、それから家にすっ飛んで帰り、慌ててそのことについて調べるために、図書館に走って行ったのを覚えています。
今からもう20年近く前のことです。
わたしは、同じく戦争犯罪に当たる原爆投下による被害については、幼い頃から興味を持ち、同じように図書館に通っては調べたりする子どもでした。
そして、調べれば調べるほど、このような惨たらしい殺戮が仕事であり、目的となる戦争、軍隊、そして軍産複合体の存在を、憎々しく思ってきました。
でも、基本は、犠牲者としてのもので、加害者としての認識は、あまり強いものではありませんでした。
理不尽に奪われた命。
それが数人なら、数十人なら、数百人なら、数千人なら、数万人なら、数十万人なら、数百万人なら…。
戦争は人や生き物を殺し、町や村や自然を破壊し、終わった後も膿を出し続けます。
そんなとてつもない暴力を、研究し、計画し、命令し、それに従えるだけの人間としての心の破壊をし、実行に移すことが、どうして罪に問われないのでしょう。
こんなひどい犯罪が、どうして戦争という名の元に、やらなくてはいけないことのような嘘が、まかり通っているのでしょう。
戦争は犯罪であり、戦争を指令した者はみな罪人として、その結果がどうであれ、勝った側も負けた側も、どちらも極悪罪人として裁きを受けるよう、法律を作るべきだと思います。
さて、最後に、こんなことを言っている人がいます。
署名を募っているのだそうです。
「そもそも、南京大虐殺など無かった」と…。
さらに、自民党の原田義昭・国際情報検討委員会委員長が、
「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国はいまや否定しようとしている時にもかかわらず、(中国が)申請しようとするのは承服できない」などと発言したり、
二階俊博・自民党総務会長が、
「ユネスコが『(南京事件で)日本は悪い』というなら、ユネスコの資金はもう日本は協力しないと言えないとしょうがない」と言っていて、
そしてさらに、安部首相本人が、昨年、特攻隊資料を記憶遺産申請の手続きに入るようにと、自ら指示をしていました。
ちなみに、この世界記憶遺産の文部科学省の担当者は、籾井勝人・NHK会長の娘である籾井圭子氏です。
もうこのような愚かなことを言う大人が、この先どんどんと減っていく日本であることを、心から願っています。
そのためにもわたしたちは、とんでもない『歴史修正に熱心』で、浅はかな言動を繰り返す政権を、必ず倒さなければなりません。