ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「だまし討ち」「肉団子」なんでもアリで強行採決ごっこを演出した自民党と、それに加担するNHK

2015年09月17日 | 日本とわたし


山本議員の、鴻池委員長に対する不信任動議の賛成討論の後半部分を、文字起こししました。
あの、世にも愚劣で情けない採決モドキを演じた自民党、公明党、そして次世代の党、日本を元気にする会、新党改革の議員たちの様子を、目にしっかりと焼き付けておこうと思います。
こんなものが採決になるほど、日本は腐ってはいない。
必ず無効にしてやる。
そういう気持ちがフツフツと湧いてきます。


↓以下、文字起こしはじめ

山本議員:
どんどん軍事を膨らましていけば、この国の主な産業が、軍事になってしまうっていう話。
だとしたらアメリカのように、軍事を中心に、この国の経済を回さなきゃいけなくなる
建国して239年、その93%を戦争でつないできている(アメリカ)、その使いっ走りとして、自衛隊は出せない!
自衛隊員はこの国の宝だ!
災害があった時に、たくさんの人々を救ってくれ、そして専守防衛でも命をかけてくれるといってくれている。

佐藤:
山本委員、山本委員、

山本議員:
はい。

佐藤:
山本委員、申し上げます。
あのー、理事会協議で討論は、常識の範囲となっております。
かなり時間が経過しておりますので、討論のとりまとめをよろしくお願いします。

山本議員:
すみません、もう、まだまだ言いたいことがたくさんあったんです。
まとめた方がいいってことですね。
自分の中でスケジュールがあったので、なかなか急にまとめろと言われましてもですね、もう少しお時間いただけますかね、これ…。
わかりました。じゃあ、終わりにした方がいいですよね。
わかりました。じゃあ最後に言わせてください。
私たちはもちろん、もちろん、今回のお話は、鴻池委員長に対するこの動議、それに賛成をするということで私は話を始めております。
けれどもやはり、その内容の振り返りも含めた上でのお話ということが、自由な発言を認めてくださっていた鴻池委員長が、
今、このような、不穏な動きをされたというのは、圧力かかってんじゃないかなって思うんすよ。
汚い仕事をさせないでいただきたいんです。
正々堂々と、公平公正な、委員長としての審議をされていた鴻池委員長に対して、
私たちは、日本の安全保障に関する対案となる政策も、主張していかなければならないと思います。
当然です。
日本の領域に対する(聞き取れず)侵害に対しては、従来通り個別的自衛権
日米安保、もちろん安保の内容や、地位協定の改定の必要はあると思いますが、それで対処できます
従来通り、尖閣、小笠原、東シナ海の中国漁船等については、海上保安庁の能力を一段と高め、自衛隊はそれをサポートすべきだと。
南シナ海に対しては、軍事力ではなく外交力で対処すべきだと。
安倍政権が一番弱い部分ですよね。
ASEAN諸国と連携し、エイペックの枠組みで、海上輸送路の安全を確保すべきだと。
中国に、国際法に違反するような行為があったとするならば、中国中国という名前が、よく政府から出てくるので、あえて中国と言いますが、
エイペックやG7などとも協力して、経済制裁をすることが一番の道じゃないかと。

もう武力で、緊張状態を作る時代じゃないんですよ。
それをやって傷つくのは、この国に生きる人々、そしてその相手国の人々。
いかに…中国を見ればわかるじゃないですか、アジアの輸出、どれぐらいですか?
56%?輸入は51%。
経済連携によって、一歩踏み外すことを止めることはできますよね。
外交力です。


議場内からヤジ(まとめろよ!)

はい、わかりました。そろそろまとめます。
このような、私の、自由な発言に対しましても、鴻池委員長は、私に、たくさんのチャンスをくださった方。
でもやはり、まだ会期が残っているにもかかわらず、この法案を途中で切り上げて、そして数の力で押し切ろうとする姿は、
たとえ鴻池委員長であっても、私は、この動議に賛成する以外無い、断腸の思いで、私の、不信任動議に対する賛成討論を終わらせていただきます。
ありがとうございました。

この後、佐藤議員によって採決が行われ、あっさりと動議は否決。
そしてあの、世にも愚かな採決モドキの茶番劇が始まります。
約8分です。

↑以上、文字起こしおわり


↓以下は、日刊IWJだよりより

■「だまし討ち」「肉団子」なんでもアリで強行採決ごっこを演出した自民党と、それに加担するNHK

一昨日の夜は、徹夜で、SEALDsによる雨中の国会前の抗議行動が続き、IWJも雨の中、朝まで完全中継を続けました。
そして、騒然たる夜が明けた昨日の朝、8時50分、自民党がギミックを仕掛けてきました

なんと、理事会を、看板を掛け替えて、委員会室で開くという離れ業を行い、そのまま委員会も開催しようとしたのです。
鴻池委員長に野党が詰め寄り、悶着が続き、休憩に。
その後も悶着と休憩が繰り返され、最終的に委員会が開催されたのは13時。
議題は、鴻池委員長の不信任動議について、でした。

不信任動議を提出者である民主党・福山哲郎議員が、47分の趣旨説明を行ったのを皮切りに、維新を除く野党議員たちが30分以上の討論
いわゆる「牛タン演説(フィリバスター)」を繰り出し、最後に山本太郎議員が、47分間の討論を行った後、
動議は、反対多数で否決されました

そして、鴻池委員長が委員長席に戻ってきた直後、「事件」は起こりました

いきなり、委員以外の体格の良い自民党議員たちが、鴻池委員長をさーっと取り囲み、「人間かまくら」を形成
強行採決に踏み切ろうとしたのです。
またしても自民党のギミック
「異変」に気づいた野党議員が、委員長席に殺到し、場内は大混乱に。

その場にいた議員も、それを中継していたNHKも、誰の耳にも、鴻池委員長の声は聞こえていなかったはずです。
まさに肉団子状態が続いたあと、佐藤正久議員が何やら拍手
何が何やら分からない状態のところ、NHKはテロップで、「採決され可決」と速報を打ちました
なぜ、NHKが採決は成立したと判断できるのか、理解できません

議事録にすら、何が起きたかが記されていないほどもみくちゃの混乱で、怒号に包まれていただけ
あれで採決が成立したとは、到底いえないでしょう。
そもそも、「人間かまくら」を作っていた自民党議員すら、鴻池委員長の言葉が聞こえていたがどうか。

また、本来、議題の設定は、一旦理事会で整理してから、仕切り直して総括審議が始まるはずでした
その総括審議をすっ飛ばして、不意打ちで、採決の成立を一方的に宣言しただけ
これは、とてもではないが、採決とは呼べません
強行採決ですらない、と言ってもいいでしょう。

この強行採決ですらない、「暴力的な何か」が起こった直後、NHKのインタビューに応えた民主党の福山哲郎議員は、
開口一番、「可決はされていません」と断言

「委員長が何を言ったのかも、いつ採決になったのかもわからない。あんなものが採決と認められれば、この国の民主主義は死にます」と、強い口調で非難しました。
野党は、採決無効を訴え、仕切り直しの審議を求めていきます

誰がどう考えても、あの場面で採決が成立したとは思えず、与党と、NHKのような偏向メディアだけが、有効であると主張しているに過ぎません
まともなメディアならば、「採決が行われたと与党は主張、野党は無効を求めている」と、中立的に報じるべきでしょう。
安倍政権とメディアの「強行採決」の既成事実化は、大問題です。

安保法制の審議は、その始めから今まで、終始一貫して「強行」されてきました
そこには、国民の声や、国会という場を尊重するという姿勢は、微塵もなかったように思います。

自民党の、こうした立憲民主主義の否定ともいうべき路線の先には、何度でも言いますが、彼らの悲願である、「自民党改憲草案の実現」がセットされています
今回の彼らの暴挙を見て、彼ら自民党が、改憲草案にあるような、国民のあらゆる自由・人権の規制を、大真面目に考えていることが分かると思います。

あらためて、この改憲草案を紐解き、分析した書籍『前夜』をご覧ください!
今回、彼らが見せた民主主義の否定
以前であれば、まさか、そんな大げさなと、リアリティを持てなかったことが、今ならばリアリティをもって実感できると思います。

※前夜 ~日本国憲法と自民党改憲案を読み解く
http://bit.ly/1jWh3da

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

まうみより、追伸

ただいま、IWJさんは、逼迫しまくりの経営難の中、大事な局面を迎えているからと、記事や動画を一般公開してくださっています。
どうか、どうか、このIWJさんのような、今ある社会の真実を、心身を削りながら必死に伝えてくださっているメディアを応援してください!
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アメリカ株式会社倒産の危機!その額なんと京単位!でも防衛費は日本に負担してもらうからいいのさ~♪♪

2015年09月17日 | 日本とわたし
この国はマジでスッカラカンか~、そうだったのか~、などと呑気なことを言っている場合ではないのですが…。
あれほどまでに破廉恥な暴挙に出た自民党と公明党、そして次世代の党、日本を元気にする会、新党改革。
あんなものは採決でも何でもなく、ただの最低最悪な茶番でしたから、もちろん撤回してやり直すべきですが、
どうしてこんなに躍起になって急ぐのか、その理由のひとつが↓にあります。

Kitagawa Takashiさんのフェイスブックより
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=963902720370000&set=a.171097882983825.40151.100002508448098&type=1&fref=nf

The Time Has Come.

アメリカ。夏の終わり9月18日、その意味。


14年間突き通した嘘の帰結が、今問われる。



スッカラカン。

兆単位ではなく、京単位か…。


今なぜ、この時期に、安保法案を強行採決せねばならなかったのか

《米政府閉鎖》が、本国で報道。
マジに、9/30までに会計期末予算が成立しないと、アメリカ株式会社倒産だ、と。(確率70%

負債額は兆ではなく、京レベルである。
米国の防衛費の一部は、日本に負担してもらわなければナラヌと切迫、必死なんだと



“NYトレーナーMakiブログ”さんより

米国政府閉鎖!+14年目の9.11ーNY実況中継!!
(2015/9/13)
http://ameblo.jp/makimed/entry-12072550950.html

実は、数日前から「米国政府が閉鎖か?」 というニュースが駆け巡り
当初は、「25%の確率で閉鎖されそう」だったのが、
翌日には、「50%の確率」になり…。

10日午前には、有力誌ワシントン•タイムスが
「閉鎖される確率は70%と報じると、
『マジかよー!?』と思って、DCの米連邦政府に勤務する友人に電話したところ、

「本当も本当!シャレにならんでー!(なぜか翻訳が大阪弁になる)」

実は、2年前の米政府閉鎖の時、 私はまさに、DCの連邦政府ビル近くにいまして、
職員の皆さんと、 “最後の晩餐”ならぬ自虐ネタ•ランチに、お付き合いした経緯があります。
(「衝撃の米国政府閉鎖!!! 当日の “最後の晩餐”」参照)。

それが、今回は、前回より深刻度が高いようです。
というのも、
1年位前から、連邦オフィスの家具や備品が、少しずつ「どこか」に運ばれて行くのを不審に思っていたのが、ここに来て合点がいったとの事。
(ってことは、前から計画されてたって事!?)

現在、必要最低限の備品で仕事をする職員たちは、戦々恐々。
色々な噂が飛び交っており、”無期限閉鎖”の可能性も否定できないようです。

要するに、会計年度期末の9月30日までに、 予算が成立しない(=ド金欠)状態にあって、
このまま行けば、「アメリカ株式会社は倒産」
という話です。

ただし、軍事予算だけは日本から出させると、 勝手に米国議会で可決されたそうです。
だから安倍内閣は、何が何でも安保法案を通そうとしてるって訳。完全なる植民地だね~

一方、今月25日に、「国連創立70周年記念」という名目(!?)で、
”影のドン”ことローマ法王、”本物の首相”こと習近平氏(中国)とプーチン氏(ロシア)ら、
実質的な世界の実力者がNYに集結するので、その時がネックになる
ように思われます。

いずれにせよ、米国政府の激変は避けられそうにない
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「違憲立法作らせ9(ナイン)」に、戦争法案廃案の声を届けよう!

2015年09月17日 | 日本とわたし
夜中にすみません。
いよいよギリギリのところまで来てしまいました。
でも、まだまだやれることがある。
そのことをお伝えしたくて書いています。

どうか、どうか、まだ起きていらっしゃる方、そして翌朝、仕事や用事までに時間がある方は、戦争への道を食い止めるべく、声を届けてください!

戦争への道を食い止めよう!戦争法案強行可決の動きに徹底して抵抗しよう!
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/7a5e1e14db0a55b9652f6105bda4bc0d


守田です。

みなさま、多くの方が眠れない夜を過ごしていると思います。
いやもう何日もそんな夜を過ごし、今は早朝に控えて眠られている方もいるかもしれません。
そうした方を含めて、たった今、全国で、安倍政権の暴政に対する、徹底した抵抗が試みられています。
抵抗が行われているのは国会内外ではありません。
各地でデモがある。
そしてツイッターで、SNSで、たくさんの情報が飛び交い、署名が回され、FAXが送られています。
今言えることは、この抵抗の力は今後、どんなことがあっても萎えさせてはならないし、萎えることはないだろうということです。

ともあれ、たった今は、出来る限りのことを貫きましょう!
東京の杉原浩司さんより、具体的な提案がまわってきましたので、今宵はこれをそのまま載せます。

頑張りましょう!

*****

【「違憲立法作らせ9(ナイン)」に、戦争法案廃案の声を届けよう!】

東京の杉原浩司です。[転送・転載歓迎/重複失礼]

9月17日午後、本来行うべき締め括り総括質疑をすっ飛ばし、今まで見たことのない「採決もどき」が強行されました
鴻池委員長は、与党の1年生議員が築いた「人間かまくら」(有田芳生議員)の中に埋もれました。
人の山と怒号でわけのわからない中、安倍首相や中谷大臣は、そそくさと逃げ出すように退場
与党議員が何回か起立し、「強行採決もどき」が上演されました
報道によれば、何と5回もの「採決」が、なされたことになったそうです。
もちろん、議事録に残せるはずもありません
これが「採決」であるわけがありません。

しかも、中継していたNHKは、すぐに、
「何らかの採決が行われた模様」
「かなり短時間で採決が行われたと思います」などと、ひたすら追認コメント

そしてあっという間に、「安保法案 参院特別委で可決」との大見出しを打ちました
事実関係を確認しないまま、あるいは確認した「事実」を説明しないまま、デタラメな「採決もどき」を既成事実化したのです。

しかも、すぐに、佐藤正久筆頭理事(自民)へのインタビューを行い、可決を前提とする質問を繰り返しました
当然ながら、続いてインタビューされた福山哲郎理事(民主)は、
「可決はされてません。
委員長が何を言ったか全くわからない、あんな暴力的なものが採決と認められるなら、日本の民主主義はどうなるのか!」
と強く抗議しました。

20時10分に始まった参議院本会議は、既に、中川雅治議運委員長の解任決議案を否決しました。
今後、野党は、
参議院で中谷大臣、岸田大臣、安倍首相らの問責決議案
山崎正昭参議院議長の不信任案などを、
さらには衆議院で、内閣不信任案を提出する見込みです。

それに対して与党は、演説時間を10分以内に制限する動議を出そうとしています

予断を許しませんが、戦争法案の採決は、18日(金)の午後から夕方になると言われています。
本当にぎりぎりの局面ですが、今夜から明日にかけて
声を届けるべき9人のキーパーソン「違憲立法作らせ9(ナイン)」に、一つでも多くの声を届けてください
短いものでも構いません。

与党に対しては強い抗議を、民主党に対しては「あらゆる手段」を駆使するように
また、戦争法案を成立させる、参議院本会議開会のベルを鳴らすことになる山崎正昭参議院議長にも、開会しないように要請してください
なお、自民党議員には、必ず党役職事務所と国会事務所の両方に送ってください

時間がありませんが、大至急広めていただくように、そして自らも必ず要請していただくようにお願いします(今回はファックスと電話に絞りました)。

-----------------------------------

<違憲立法作らせ9(ナイン)>

【三権の長として、違憲の法案を採決するベルを鳴らさないでください!】

◆山崎正昭・参議院議長(福井/改選)
国会事務所
(FAX)03-6551-1201 (TEL)03-6550-1201

【抗議を!】

◆溝手顕正・自民党参議院議員会長(広島)
参議院議員会長室
(FAX)03-3580-1114
国会事務所
(FAX)03-6551-0028 (TEL)03-6550-0819

◆伊達忠一・自民党参議院幹事長(北海道)
参議院幹事長室
(FAX)03-3508-8772
国会事務所
(FAX)03-5156-8070 (TEL)03-6550-0612 

◆吉田博美・自民党参議院国対委員長(長野)
参議院国対委員長室
(FAX)03-3580-7774
国会事務所
(FAX)03-6551-0610 (TEL)03-6550-0610
(地元FAX)0265-36-6735
 

◆魚住裕一郎・公明党参議院議員会長(比例)
国会事務所
(FAX)03-6551-0326 (TEL)03-6550-0326

◆西田実仁・公明党参議院幹事長(埼玉/改選)
国会事務所
(FAX)03-6551-1005 (TEL)03-6550-1005


【あらゆる手段で抵抗を(牛歩、長時間演説など)】

◆岡田克也・民主党代表(三重)
国会事務所
(FAX)03-3502-5047 (TEL)03-3508-7109

◆枝野幸男・民主党幹事長(埼玉)
国会事務所
(FAX)03-3591-2249 (TEL)03-3508-7448

◆榛葉賀津也・民主党参議院国対委員長(静岡)
国会事務所
(FAX)03-6551-0026 (TEL)03-6550-1011

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◆自民、公明の地元議員にもぜひ働きかけてください。
「賛成するなら、次の選挙では支持しません」と強調してください。


全参議院議員名簿
http://sogakari.com/?p=594

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【番外編】

<何が何だかわからない、議事録に残せない「強行採決もどき」を、早々に「可決」と追認したNHKに猛抗議を!

◆NHK
(TEL)0570-066-066(受付は9時~22時まで)
(メールフォーム) https://cgi2.nhk.or.jp/css/mailform/mail_form.cgi
(FAX)03-5453-4000

※電話がつながらない場合はメールやFAXで。

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★本日18日は朝9時から国会正門前で座り込み・集会が、
夕方18時30分からは大集会が行われます。
駆けつけましょう!


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守田敏也 MORITA Toshiya
[blog] http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011
[website] http://toshikyoto.com/
[twitter] https://twitter.com/toshikyoto
[facebook] https://www.facebook.com/toshiya.morita.90
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「もう止まらない。すでに私たちの日常の一部になっているのです」by 奥田愛基さん

2015年09月15日 | 日本とわたし
10年前の、憲法記念日の前日に放送された、NHKの『その時歴史が動いた』。
「もう戦争はいやだ」
憲法九条 平和への闘争

1時間弱の放送を見て、1950年代の、政治家に翻弄される国民の様子の中に、今と似通ったところがたくさん見受けられたことに驚きました。
そして、吉田茂にせよ岸信介にせよ、国を立て直そうとする気持ちが根底にあったとはいえ、結局は、自らの野望と保身のために、戦勝国アメリカが出してくる条件を受け入れた。
そのことを、改めて認識しながら見たビデオでした。

戦争の放棄、戦力の不保持。
日本国憲法の平和主義は、世界でも類を見ない徹底したものでした。
そんな憲法を制定させておきながら、朝鮮戦争が勃発し、東西冷戦が激化してきた途端、一切の軍備を捨てた日本に再軍備を求めるアメリカ。
その要求を呑めば独立させてやる。
こんな独立は独立ではなかったのです。

その頃のことを、詳しく書いてくださった池田香代子さんのブログ記事を、ここに紹介させていただきます。

2010年11月17日
「沖縄に米軍基地があれば9条は変えなくていい」とマッカーサーは言った
href="http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51500783.html"target="_blank">http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51500783.html

沖縄の米軍基地が、仮設のいわゆる「かまぼこ兵舎」から本格的な建造物に変わったのは、いつのことでしょうか。
それには、48年という年が、意味をもっているそうです。

戦後、冷戦がその相貌をあきらかにし始め、アメリカは、日本の軍備を考えるようになりました。
48年、ケナン国務省政策企画本部長が来日し、日本に軍備をもたせろとの米政府の方針を、マッカーサーに伝えます。
前年に、新憲法が施行されたばかりだというのに。

マッカーサーは、この本国からの指令に、異を唱えます。
「占領方針を変えることは、GHQの権威に傷がつく。
9条は歓迎されているので、もしも軍隊を創設するなら、アメリカが強制しなければならず、それは得策ではない」と。
マッカーサーは、それまで自分が行ってきた施策に、本国政府だろうが、口を挟まれたくなかったのでしょう。
「日本が軍隊をもたなくてもだいじょうぶだ」と、マッカーサーはケナンを説得します。
ダグラス・ラミスさんの新著『要石:沖縄と憲法9条』(晶文社)に書いてありました。
ここからは、直接この本から引用します。

マッカーサーは、
「なぜ大丈夫かというと、沖縄があるから」と言いました。
「沖縄に半永久的な基地をつくれば、沖縄から、米軍が軍事力で日本を守ることはできる」と。
「沖縄に大きな基地を作れば、日本の九条は変えなくてもいい」と言ったのです。
だから、マッカーサーの頭の中で、それからアメリカの政策の中で、
沖縄の米軍基地と日本の憲法九条は、同じ政策の裏表だと思っていたんです。

日本を「共産主義の脅威」から守るという米軍基地が、なぜ沖縄に構想されたのか
それは地理的条件ではなく、当時沖縄がアメリカの施政権下にあって、基地がつくりやすかったという、政治的な条件がすべてだったことが、このエピソードから明らかです。
おそらくマッカーサーの頭には、47年9月に伝えられた、
「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
米国による沖縄占領は、共産主義の影響を懸念する、日本国民の賛同も得られる」という、
昭和天皇の沖縄メッセージ
が、強烈にすり込まれていたことでしょう。

沖縄の米軍基地と憲法9条と天皇制は、敗戦直後、絶妙の政策ブレンドとして採用されたのです。
なんというグロテスクな歴史の現実でしょうか。
そして、51年の日米安保条約で、恒久的な(沖縄での)基地提供が法的な根拠を得、
50年代、日本各地で米軍基地反対の声が強まるにつれ、米軍が陸続と沖縄に移っていった
、その流れの先端に、2010年は位置するわけです。

↑以上、転載おわり


そう、グロテスク…。
この言葉がぴったりだと思いました。
政治家と戦争屋はこうして、さまざまな国で、グロテスクな歴史を紡ぎ続けています。
そのグロテスクさを隠すために、金とウソをばら撒き散らし、わたしなどはまんまと騙されてきました。

ここ数日、ヘッドホンをして文字起こしをしていると、夫が横から、そういうのが一番疎外感を感じるのでやめてほしいと言われました。
わたしが何を聞き、何に一所懸命になっているのか、それが全く分からないと。
文字起こしをする時は大抵、何度も聞き直さなければなりません。
早口の人の話は特に、少し大きめの音量にして、止めては書き、また止めては書きという作業が続きます。
そういう音を聞くのは苦痛だろうと、こちらとしては気を遣っているつもりだったのですが、長い番組だったので時間がとてもかかったのも原因だったと思います。

いったいどうしてそんなことをしているのか。
それは仕事なのか。

仕事…そう言われて考え込んでしまいました。
今のわたしにとって、日本やアメリカ、そして耳や目に入ってくる国々の問題について考えることは、最早当たり前のことになりました。
考えるだけではなくて、考えたこと、知ったことを、ここに記しておくことも、やはり日常の中の一コマになりました。
こういうことをして、いったい何になるのか。何のためにやっているのか。
ここまできて、改めて気づいたことがあります。
もうそんなことを全く考えなくなった、ということです。
いったい何になるのか、何のためにやっているのか、そういうことが全く気にならないのです。
けれども、正直言うと、もちろん時間をかけてやるわけなので、普段の生活に大変なことが起こったり、とても忙しくなったりした時は、これさえなかったらもう少しは楽だろうに…などと思ったりもします。
でももう止まらないのです。
この感じを、中央公聴会に出席した奥田くんが、見事に表現してくれました。

「こんな不断の努力なくして、この国の憲法や民主主義、それらが機能しないことを自覚しているから」
「もう止まらない。すでに私たちの日常の一部になっている」
「政治のことを考えるのは仕事ではありません。この国に生きる個人としての不断の、そして当たり前の努力です」



前置きが長くなってすみません。
昨日15日の中央公聴会での、奥田愛基さん意見陳述全文です。
岩上さん率いるIWJのぎぎまきさんが、文字起こしをしてくださいました。

9月15日中央公聴会、奥田愛基さん意見陳述全文
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/264668

ご紹介に預かりました、大学生の奥田愛基といいます。
『SEALDs』という学生団体で活動しております。

すみません、こんなことを言うのは非常に申し訳ないのですが、
先ほどから寝ている方が沢山おられるので、もしよろしければお話を聞いていただければと思います
僕も二日間くらい緊張して寝られなかったので、僕も帰って早く寝たいと思っているので、よろしくお願いします。

初めに、『SEALDs』とは、”Student Emergency Action for Liberal Democracy”。
日本語で言うと、『自由と民主主義のための学生緊急行動』です。

私たちは、特定の支持政党を持っていません
無党派の集まりで、保守、革新、改憲、護憲の垣根を超えて繋がっています
最初はたった数十人で、立憲主義の危機や、民主主義の問題を真剣に考え、5月に活動を開始しました

その後、デモや勉強会、街宣活動などの行動を通じて、
私たちが考える、国のあるべき姿や未来について、日本社会に問いかけてきた
つもりです。

こうした活動を通して、今日、貴重な機会をいただきました。
今日、私が話したいことは、3つあります。
1つは、今、全国各地で、どのようなことが起こっているか。
人々が、この安保法制に対して、どのように声を上げているか。

2つ目は、この安保法制に関して、現在の国会は、まともな議論の運営をしているとは言いがたく、あまりにも説明不足だということです。
端的に言って、このままでは、私たちはこの法案に関して、到底納得することができません

3つ目は、政治家の方々への、私からのお願いです。

まず第一にお伝えしたいのは、私たち国民が感じている、安保法制に関する大きな危機感です。
この安保法制に対する疑問や反対の声は、現在でも、日本中で止みません
つい先日も、国会前では、10万人を超える人が集まりました

しかし、この行動はなにも、東京の、しかも国会前(だけ)で行われているわけではありません。

私たちが独自に、インターネットや新聞などで調査した結果、
日本全国2000ヶ所以上、数千回を超える抗議が行わわれています
累計して、130万人以上の人が、路上に出て声をあげています

この私たちが調査したものや、メディアに流れているもの以外にも、沢山の集会が、あの町でもこの町でも行われています
まさに、全国各地で声があがり、人々が立ち上がっているのです。

また、声を上げずとも、疑問に思っている人は、その数十倍もいるでしょう。

強調しておきたいことがあります。
それは、私たちを含め、これまで政治的無関心と言われてきた若い世代が、動き始めているということです。
これは、誰かに言われたからとか、どこかの政治団体に所属しているからとか、いわゆる動員的な発想ではありませ

私たちは、この国の在り方について、この国の未来について、主体的に一人ひとり、個人として考え、立ち上がっているのです。

SEALDsとして活動を始めてから、誹謗中傷に近いものを含む、さまざまな批判の言葉を投げかけられました

例えば、『騒ぎたいだけだ』とか、『若気の至り』だとか、そういった声があります。
他にも、『一般市民のくせにして、何を一生懸命になっているのか』というものもあります。
つまり、『お前は専門家でもなく学生なのに、もしくは主婦なのに、お前はサラリーマンなのに、フリーターなのに、なぜ声をあげるのか』ということです。

しかし、先ほどもご説明させていただきましたように、私たちは一人一人、個人として声をあげています。
不断の努力なくして、この国の憲法や民主主義、それらが機能しないことを、自覚しているからです。

『政治のことは、選挙で選ばれた政治家に任せておけばいい』。
この国にはどこか、そういう空気感があったように思います。


それに対し私、私たちこそが、この国の当事者、つまり主権者であること、
私たちが政治について考え声をあげることは、当たり前なんだということ、そう考えています。

その当たり前のことを当たり前にするために、これまでも声を上げてきました
そして、2015年9月現在、今や、デモなんてものは珍しいものではありません
路上に出た人々が、この社会の空気を変えていったのです。

デモや、至るところで行われた集会こそが、『不断の努力』です。
そうした行動の積み重ねが、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権といった、この国の憲法の理念を体現するものだ、と私は信じています。

私は、私たち一人ひとりが思考し、何が正しいのかを判断し声をあげることは、間違っていないと確信しています。
また、それこそが民主主義だと考えています。

安保法制に賛成している議員の方々も含め、戦争を好んでしたい人など、誰もいないはずです。

私は先日、予科練で、特攻隊の通信兵だった方と会ってきました
70年前の夏、あの終戦の日、20歳だった方々は、今では90歳です。
ちょうど今の私や、SEALDsのメンバーの年齢で、戦争を経験し、そして、その後の混乱を生きてきた方々です。

そうした世代の方々も、この安保法制に対し、強い危惧を抱かれています
私は、その声を、しっかりと受け止めたいと思います。
そして議員の方々も、どうか、そうした危惧や不安を、しっかり受け止めてほしいと思います。

今、これだけ不安や反対の声が広がり、説明不足が叫ばれる中での採決は、そうした思いを軽んじるものではないでしょうか
70年の不戦の誓いを、裏切るものではないでしょうか

今の反対のうねりは、世代を超えたものです。
70年間、この国の平和主義の歩みを、先の大戦で犠牲になった方々の思いを引き継ぎ、守りたい
その思いが、私たちを繋げています。

私は今日、そのうちのたった一人として、ここで話をしています。
つまり、国会前の巨大な群像の中の一人として、国会にきています


第二に、この法案の審議に関してです。

各世論調査の平均値を見たとき、初めから、過半数近い人々が反対していました
そして、月を追うごと、反対世論は拡大しています
『理解してもらうためにきちんと説明していく』と、現政府の方はおっしゃられておりました

しかし、説明した結果、内閣支持率は落ち、反対世論は盛り上がり、この法案への賛成の意見は減りました

選挙の時に、集団的自衛権に関してすでに説明した、とおっしゃる方々もいます
しかしながら、自民党が出している重要政策集では、
アベノミクスに関しては、26ページ中8ページ近く説明されていましたが、
それに対して、安全保障関連法案に関しては、たった数行でしか書かれていません

昨年の選挙でも、菅官房長官は、『集団的自衛権は争点ではない』と言っています
さらに言えば、選挙の時に国民投票もせず、解釈で改憲するような、違憲で法的安定性もない、
そして、国会の答弁をきちんとできないような法案を作るなど、私たちは聞かされていません


私には、政府は、法的安定性の説明することを、途中から放棄してしまったようにも思えます
憲法とは国民の権利であり、それを無視することは、国民を無視するのと同義です。

また、本当に、与党の方々は、この法律が通ったらどんなことが起こるのか、理解しているのでしょうか、想定しているのでしょうか
先日言っていた答弁とはまったく違う説明を、翌日に平然とし、野党からの質問に対しても、国会の審議は、何度も何度も速記が止まるような状況です。

このような状況で一体、どうやって国民は納得したらいいのでしょうか

SEALDsは確かに注目を集めていますが、現在の安保法制に対して、その国民的な世論を、私たちが作り出したのではありません
もしそう考えていられるのでしたら、それは、残念ながら過大評価だと思います。

私の考えでは、この状況を作っているのは紛れもなく、現在の与党のみなさんです
つまり、安保法制に関する国会答弁を見て、首相の、テレビでの理解し難い例え話を見て、
不安を感じた人が国会前に足を運び、また、全国各地で声を上げ始めた
のです。

ある金沢の主婦の方が、Facebookに書いた国会答弁の文字起こしは、瞬く間に1万人もの人にシェアされました。ただの国会答弁です。
普段なら見ないようなその書き起こしを、みんなが読みたがりました

なぜなら、不安だったからです。

今年の夏までに、武力行使の拡大や集団的自衛権の行使の容認を、なぜしなければならなかったのか
それは、人の生き死にに関わる法案で、これまで70年間、日本が行ってこなかったことでもあります

一体なぜ、11個の法案を、2つにまとめて審議したか、その理由もよく分かりません
ひとつひとつ審議しては、駄目だったのでしょうか。
まったく納得が行きません

結局、説明をした結果、しかも国会の審議としては異例の、9月末まで延ばした結果、国民の理解を得られなかったのですから、もう、この議論の結論は出ています

今国会での可決は無理です。
廃案にするしかありません

私は毎週、国会前に立ち、この安保法制に対して、抗議活動を行ってきました。
そして、沢山の人々に出会ってきました。
その中には、自分のおじいちゃんやおばあちゃん世代の人や、親世代の人、そして最近では、自分の妹や弟のような人たちもいます。

確かに若者は、政治的に無関心だといわれています。
しかしながら、現在の政治状況に対して、どうやって彼らが、希望を持つことができるというのでしょうか。
関心が持てるというのでしょうか。

私や彼らがこれから生きていく世界は、相対的貧困が5人に1人といわれる、超格差社会です。
親の世代のような経済成長も、これからは期待できないでしょう。
今こそ、政治の力が必要なのです。

どうかこれ以上、政治に対して絶望をしてしまうような仕方で、議会を運営するのはやめてください

何も、賛成からすべて反対に回れ、と言うのではありません。
私たちも、安全保障上の議論は、非常に大切なことを理解しています
その点について異論はありません。
しかし、指摘されたこともまともに答えることができないその態度に、強い不信感を抱いているのです。

政治生命をかけた争いだとおっしゃいますが、政治生命と国民一人ひとりの生命を比べてはなりません
与野党の皆さん、どうか、若者に希望を与える政治家でいてください
国民の声に耳を傾けてください
まさに、『義を見てせざるは勇なきなり』です。

政治のことをまともに考えることが、馬鹿らしいことだと思わせないでください
現在の国会の状況を冷静に把握し、今国会での成立を断念することはできないのでしょうか

世論の過半数を超える意見は、明確にこの法案に対し、今国会中の成立に反対しているのです。
自由と民主主義のために、この国の未来のために、どうかもう一度、考えなおしてはいただけないでしょうか

私は単なる学生であり、政治家の先生方に比べ、このようなところで話すような立派な人間ではありません。
もっと言えば、この場でスピーチすることも、昨日から寝られないくらい緊張してきました。
政治家の先生方は、毎回、このようなプレッシャーに立ち向かっているのだと思うと、本当に頭が下がる思いです。

一票一票から国民の思いを受け、それを代表し、この国会という場所で毎回答弁をし、最後には投票により法案を審議する。
本当に本当に、大事なことであり、誰にでもできることではありません。
それは、貴方たちにしかできないことなのです。

では、なぜ私はここで話しているのか。
どうしても勇気をふり絞り、ここにこなくてはならないと思ったのか。
それには理由があります。

参考人として、ここにきてもいい人材なのか分かりませんが、参考にしてほしいことがあります。

ひとつ、仮にこの法案が、強行に採決されるようなことがあれば、全国各地で、これまで以上に声が上がるでしょう
連日、国会前は人で溢れかえるでしょう
次の選挙にも、もちろん影響を与えるでしょう

当然、この法案に関する、野党の方々の態度も見ています
本当に、できることはすべてやったのでしょうか
私たちは決して、今の政治家の方の発言や態度を忘れません

『三連休を挟めば忘れる』だなんて、国民を馬鹿にしないでください
むしろ、そこからまた始まっていくのです。
新しい時代はもう始まっています
もう止まらない
すでに、私たちの日常の一部になっているのです。

私たちは学び、働き、食べて、寝て、そして、また路上で声を上げます
できる範囲で、できることを、日常の中で

私にとって、政治のことを考えるのは、仕事ではありません。
この国に生きる個人としての、不断の、そして当たり前の努力です。
私は、困難なこの4ヶ月の中で、そのことを実感することができました。
それが私にとっての希望です。


最後に、私からのお願いです。
SEALDsの一員ではなく、個人としての、一人の人間としてのお願いです。

どうか、どうか、政治家の先生たちも、個人でいてください
政治家である前に、派閥に属する前に、グループに属する前に、たった一人の『個』であってください
自分の信じる正しさに向かい、勇気を持って孤独に思考し、判断し、行動してください

みなさんには、ひとりひとり、考える力があります。
権利があります。
政治家になった動機は、人それぞれ様々あるでしょうが、どうか、政治家とはどうあるべきなのかを考え、この国の民の意見を聞いてください

勇気を振り絞り、ある種、賭けかもしれない、あなたにしかできないその尊い行動を取ってください
日本国憲法はそれを保障し、何より日本国に生きる民、一人ひとり、そして私は、そのことを支持します

困難な時代にこそ希望があることを信じて、私は、自由で民主的な社会を望み、この安全保障関連法案に反対します

2015年9月15日、奥田愛基。
ありがとうございました。
コメント (1)
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「一人一人の人間が尊重される世の中が、憲法9条が訴える平和の世の中なんだ」憲法九条・平和への闘争より

2015年09月15日 | 日本とわたし
39分20秒より

昭和32年2月25日、憲法改正に意欲を燃やす岸信介が総理大臣になります。


しかし、前の年の参議院選挙で、改憲に必要な2/3の議席を確保できなかったため、新たな戦術に打って出ます
岸は、アメリカの駐日大使と交渉を始めます


押し出したのは、日米安保条約の改定でした。


安保条約では、在日米軍に基地を提供しているにもかかわらず、日本を防衛する義務は明記されていませんでした




日本の安全保障にとっては、不平等なものでした。
安保改定の狙いを、岸は、アメリカ側にこのように伝えています。

安保条約を改定することで世論をつかめば
(modifying the Security Treaty swing public opinion)


選挙に勝つことができ、憲法改正ができる
(win elections and then revise the constitution)

(アメリカ駐日大使の記録より)

岸は、安保条約の不平等さを解消することで、国民の支持を得て、改憲を成し遂げようと考えたのです。

昭和35年1月19日、およそ3年かけて、岸は、日米新安全保障条約の調印に至ります


残すは、国会での条約批准審議と採決だけでした。


安保条約を合理的に変えようと、その内容は従来から不合理であるから、変えなきゃいかんと言われておったことを、
数年かかってアメリカをして承認せしめたことでございますから、是非私はこの国会で承認を成立させたい
と、こう思っております。



しかし、浅沼稲次郎率いる社会党は、この新条約に猛反発します。
浅沼たちが問題にしたのは、新安保条約の5条です。


そこには、日本のしせいか(?)で、日米いずれかが武力攻撃を受けた場合、もう一方も自らの安全問題と考え、共通の危険に対処することが約束されていたのです。

浅沼氏;
すなわち、憲法的にこれを見ればですね、大きな疑義が出てくるわけです。
第一には、国際紛争を解決する手段として、戦争放棄をした日本が、アメリカとよその国の国際紛争のために巻き込まれる危険性がある


この社会党の懸念が、現実味を帯びる事件が起きます。
昭和35年5月、ソ連上空で、米軍のU2偵察機が撃墜されたのです。


ソ連のフルシチョフ首相は、西側諸国に警告を発します。

ソ連に向け、偵察機を発信させる基地を、攻撃する


国会では、さっそく野党がこの事件を取り上げ、政府を追及します。

これは日本に国民にとって、非常に重大な関係がある。


なぜならば、同じ飛行機のU2機が日本にあるからだ。だから問題なのだ


実はこの頃、厚木の米軍基地にも、U2偵察機が配備されていたのです。

さらに野党は問い質します。

ソ連が日本の米軍基地を攻撃してきた場合、新安保条約の5条は発動されるのか


時の藤山外務大臣は、こう答えました。

もし武力攻撃があれば、第5条を発動することになる


この答弁は、日本がアメリカの戦争に巻き込まれる可能性を、国民に示すことになりました

この頃新聞には、安保改定を批判する投書が寄せられていました。




自衛隊員の投書です。



『われわれは『いつかきた道』を歩まんがために、生命を売って銃をとっているのではない。


「自衛手段の必要性」だけを信じて、この泥くさい職業を選んだのである』




国権の発動たる戦争を放棄した、憲法9条の第一項。
国権の発動たる戦争と、武力の行使は、永久にこれを放棄する。



国民の多くは、岸の政策がこれに反し、戦争へ向かっていると感じたのです。

しかし岸は、9条を改正して軍事力を持つことも、新安保条約でアメリカと共に防衛力を強化することも、
日本の平和を守るための、現実的な手段だという信念に貫かれていました


何が何でも新条約を成立させずにはおかない、という気持ちだった。
それが政治家としての私の責務であり、
国家、民族の平和と繁栄に貢献すると、確信していた。

「岸信介回顧録」より



昭和35年5月19日、国会の議論が今なお紛糾する中、岸内閣は、新安保条約の採決に入ります
社会党議員がいない中での強行採決


新条約は、一ヶ月後に、承認されることになりました。

しかし、岸のこのやり方が、国民の怒りに火をつけます
「安保反対!安保反対!」


強行採決の翌日から、国会はかつて無い民衆に囲まれ始めます

安保反対の請願書には、2千万に及ぶ人々が署名したといいます。


それはひとえに、戦争はもういやだという、悲痛な訴えでした




さらに、全国でも、反対集会が行われます。


安保改定に反対して、ストを起こす商店街が出てくるほど、一般市民の怒りは広がったのです。


昭和35年6月15日午前0時、新安保条約は自然承認されました。


しかし一ヶ月後、昭和35年7月15日、国民の支持を失った岸は、退陣します



その4日後、池田勇人を首班とする内閣が発足します。


岸内閣の閣僚だった池田の、改憲に対する姿勢に注目が集まりました

そしてその時、昭和35年、1960年9月7日、


新政策を公表する記者会見。
池田は、こう表明します。
「憲法改正は、いま考えていない」


その後も池田は、「改憲」を政策として打ち出すことはなく、以来、憲法改正を実現した総理大臣は現れていません。


その結果、憲法9条は、施行から60年を経た今日まで、一言一句変わっていないのです。




スタジオ
松平アナウンサー:
坂元さんは、今日のその時を、どうお捉えになりますか?

坂元氏:
岸首相は、安保条約の不平等さを是正する安保改定が、憲法改正のテコになると考えたようです。
しかし、安保騒動が起こって、退陣せざるを得なくなると。
それだけではなくて、その後の自民党は、国論を二分する問題の議論には、非常に慎重になるんですね。
そのことが、憲法改正の意気込みを、後退させることになりました
その象徴が、今日のその時の、池田さんの発言なんですね。
岸首相の後を継いだ池田さんは、低姿勢で、つまり憲法改正のような、力技を必要とするような問題は、なるべく避けて、


高度経済成長に邁進して、保守政治の安定を図る
と、そういう政策をとっていきます。


それが、戦後保守政治の基本的な政策にもなっていくわけですね。


松平アナウンサー:
なるほど。
古関さんは、今日のその時をどう、歴史を動かしたとお考えになりますか?


古関氏:
そうですね、国民に平和憲法が定着しはじめた時代、というふうに私は見ます。


ただ、しかしその持つ意味というのは非常に複雑でして、憲法9条は全く変わらない
ですけれども、現実はどんどん変わっていく
それを、政府の解釈によって、憲法の9条の枠組みの中で可能にしていく
その頃から、『解釈改憲』という言葉が出てきますけれども、そのような事が為されてくる時代の始まりでもあった。

しかしその一方で、見方を変えてみれば、その解釈改憲をするのにいつもこう、9条を気にしつつ、9条に配慮しつつ、その整合性をどうとるか、ということを考えていた。


ま、いうなれば9条がバランサーとして存在した時代、いうふうにも言えるのではないかと思っております。


松平アナウンサー:
この冷戦後の今、ですね、その今と9条との関わり、これはどういうふうにお考えになっていますか?


古関氏:
冷戦後、国家間の戦争というものから、地域紛争とか、あるいはテロとかというものに、どう対応するかというような問題になってきた
そんな中で、国連などで、人間の安全保障なんていうことが言われておりますけれども、


私たちは、9条のもとで、軍事のみによらない安全保障ということで、具体的にどう進めるのかということを考えなければならない時代を、すでに迎えているといいますか、そんなふうに私は思っております。


坂元氏:
日本は世界の大国として、狭い意味での自衛だけではなくて、国際的な安全保障の問題の解決に、応分の負担を求められているわけであります。
国際紛争解決のための戦争はしないと。
それは、今も昔も、明確な国民のコンセンサスなんですけれども、
それを守りつつ、新しい課題にどうこたえていくか
そのために9条の改正が必要なのか、あるいは解釈の変更で良いのか、それとも改正も解釈の変更も必要無いのか
国民の間の、真剣な議論が求められていると思いますね。



松平アナウンサー:
ありがとうございました。
施行60年という節目の年の、憲法記念日を明日に控えて、
今日の『その時歴史が動いた』は、憲法、それも憲法9条を正面に据えて、考えてまいりました。
この番組の終わりにあたって、この憲法9条に真剣に向き合って、そして真剣に考えている人たち、
その姿をご紹介しながらの、今日はお別れにしたいと考えます。
今夜もご覧いただき、ありがとうございました。



1989年に冷戦は終結。
しかしその後も世界では、戦争や紛争があとを絶ちません。
自衛隊は、現行憲法9条のもとで、国際貢献という新たな役割を担い、海外にも派遣されるようになっています。
先月(平成19年4月5日)、防衛大学校の入校式が行われました。


「日本国憲法、法令、及び校則を遵守し、」



入校したのは、平均18歳の若者483人。
冷戦崩壊の時に生まれた世代です。
これから4年間、自衛隊の指揮官としての知識と技能を身につけ、防衛の最前線に立つことになります。
ひとえに、国を守ることを念頭に行われる学生生活。
憲法9条と自分たちの職務についても、思いを巡らせています。

西森智章さん(21):
憲法9条に関しては、しっかり皆さんが納得できるような形になっていないので、それを納得できる形にすることが一番大事だと思います。


野小生淳さん(22):
必要最低限度の実力とか、中途半端な形になっていると思うんですけど、
そういう状態であるからこそ、みんなが関心を持って、それについて考えている状態なので、今のままでもいいと思います。



かつて砂川闘争があった、東京都立川市砂川町。


昭和43年、米軍立川基地の拡張計画は中止され、その後、日本に全面返還されました


農民のリーダーだった宮岡政雄さん
宮岡さんは、基地返還後も、沖縄や横田などで、基地反対を訴え続けました


宮岡さんが、69歳で亡くなるまで愛用していた『六法全書』


昼は農作業、夜は独学で法律を学びながら、平和を訴え続けました


娘の京子さんは、世の中の動きを見つめ、父の訴えが今こそ大切だと感じています


福島京子さん:
父が本当にこう、平和平和ということを、なぜいつまでも言い続けるのかっていうことが不思議でならなかったけれども、
やはりそれを訴え続けなければ、平和は維持できない
やはり、日常の中で、常に目を見張って、想像力を持って生きていくことが、平和を守っていくことなんではないかなということを、最近は特に思いますね。



旧米軍立川基地は、現在、自衛隊や公園などに利用されています。
基地に隣接するこの土地で、妻の公子さんと娘の京子さんは、今も農作業を続けています。


憲法9条に、さまざまな考え方がある中、宮岡さんは、すべての人々に共通する平和について、京子さんにこうつぶやいたといいます。

「一人一人の人間が尊重される世の中が、憲法9条が訴える平和の世の中なんだ」
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「日本国憲法の平和の精神と、私たちがやってる戦争反対や基地反対の運動は一体のものである」砂川闘争

2015年09月15日 | 日本とわたし
昨日の続きです。
『その時歴史が動いた』

憲法九条 平和への闘争
~1950年代 改憲・護憲論~

【NHK 2007年5月2日放送】20分20秒あたりから

ナレーション

昭和29(1954)年11月24日、鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結成されます。


民主党は、軍備を増強する吉田の政策が、憲法9条と矛盾していると非難
不信任案を突きつけ、退陣に追い込みます

そして、鳩山内閣が誕生
目指したのは、軍備の保有を憲法で認めるため、9条を改正すること
改憲でした


この改憲勢力の旗揚げを勧めた中心人物がいました。
日本民主党幹事長、岸信介です


岸が改憲を主張したのは、戦後10年近くを経た日本の在り方への疑問からでした。

戦時中、東条英機内閣の商工大臣だった岸は、太平洋戦争を推し進めた閣僚のひとりでした。


戦後、岸は永久戦犯の容疑で逮捕されます


岸は、戦争に負けた責任を強く感じていました。

『これだけ破壊された日本をどうして復興するか。
われわれが戦争指導者であった責任からいって、日本の将来の基礎をつくらねばならない』

「岸信介の回想録」より

その後、不起訴となり釈放された岸は、日本が占領から脱した後に政界に復帰
その目に映ったのは、アメリカの支配下から未だ抜け出せない、日本の姿でした。


そしてその象徴が、GHQの指導の元で作られた憲法だと、岸は感じていました


民族的自信と独立の気魄を取り戻す為めには、吾々の手に依って作られた憲法を持たねばならぬ。
「岸信介の回想録」より


岸が訴えたのは、日本人自らの手による憲法の改正。
中でも、国を守る軍事力を持てるよう、憲法に明記するすることが重要と考えたのです。


憲法を改正するには、衆参両院で2/3以上の議員の賛成が必要でした。


その勢力を確保するため、岸は、さらに他の保守系の政党と、合同を進めようとします
しかしこの動きは、政界内に強い反発を招きます。
その中心人物が、右派社会党書記長の浅沼稲次郎でした。


浅沼は、改憲は軍備増強につながると、抵抗を始めます。
戦時中、浅沼の属する社会大衆党は、政府の戦争遂行に協力する『大政翼賛会』に参加していました。


しかし、昭和20年3月の東京大空襲で、浅沼の住む町は焦土と化し、多くの仲間を失いました。

『戦争は残酷なものだ。
すべてを滅亡させる。
私は、戦争の死線をこえて、これからは余禄の命だと心に決めた。
そしてその命を、今後の日本のために、投げださねばならぬ』

「私の履歴書」より


戦争に加担した罪の意識
戦後、浅沼は社会党に入り、平和を訴える活動に身を投じていたのです。

昭和30年10月13日、浅沼たちは、岸の進める改憲の動きに抗うため、左派と右派に分裂していた社会党を統一します。


社会党は綱領に、『平和、民主憲法の擁護』と記し、憲法9条を守る『護憲』を掲げました



その1ヶ月後の昭和30年11月15日、岸の進めてきた保守勢力の合同も実現
『自由民主党』が誕生します。


自民党の政綱には、『自衛軍備の整備』


そして、『憲法の自主的改正』が掲げられました


ここに、改憲・護憲を掲げた保革2大政党による政治体制、いわゆる55年体制が始まるのです。


明る昭和31年7月の参議院選挙は、改憲が護憲かを問う初めての選挙になりました。


自民党は、憲法を改正するためには、どうしても2/3の議席が必要だ、と主張します。


一方社会党は、それを阻止するため、1/3の議席確保を訴えます。



結果は、改選議席数127のうち、自民党61、社会党49
社会党は大きく議席を伸ばし、他の護憲勢力と合わせ、1/3を超える議席を獲得します。
国民は、憲法改正に対して、ノーの審判を下したのです。

それは、池田内閣が、改憲・護憲論争に終止符を打つ、4年前のことでした。




スタジオ
松平アナウンサー:
坂元さん、戦後政治の枠組みとして、40年近く続いた、いわゆる55年体制
あれが憲法9条をめぐる対立と、相当大きく関わっていたということですね。


坂元氏:
私の見るところ、9条の一項・戦争放棄、それについてはコンセンサス(合意)があった


がしかし、自分たちの国を守る、自衛はどうするんだということになりますと、大きな対立がありました
これは、9条二項に関わる問題です。


で、この問題で、一方には、過去の戦争を反省し、武器の無い平和な世界を作る
そのために、そういう理想を求めて、非武装・中立の国になるべきだ、という意見があります。


他方、理想論では国の安全は保てない
過去の反省は反省として、日本にも必要最小限の自衛力は必要だし、それが現実的だという意見があります。


この9条、特に9条二項をめぐる、この理想論と現実論の対立は、
東西冷戦下、55年体制における保守勢力と革新勢力の間の激しい論尊、その論争の中心テーマのひとつになりましたね。


松平アナウンサー:
古関さん、その護憲か改憲かをめぐる初の国政選挙で、護憲派が1/3以上の議席を得た。
この結果はどういうふうにお捉えになりますか?


古関氏:
こちらに、憲法9条改正の賛否を問う世論調査のグラフがございます。
これを見ていただきますと、昭和29年(1954年)までは、憲法を改正するべきだという世論が上回っています


これは朝鮮戦争の影響が非常に大きかった
が、しかしながらこの50年代半ばというのは、日本にも米軍基地を新設したり、あるいは拡張する、というようなことをします。
あるいはまた、自衛隊という組織が作られたのもこの頃ですね。

で、そうなってまいりますと、国民から見ますと、だんだん戦争というものが身近に感ぜられるといいますか、
そういう中で、憲法改正の反対の世論というものが、賛成の世論を上回ってくる、逆になってくるわけですね。


松平アナウンサー:
まあそうした状況の中で、当時日本の国民の間では、いったい何が起こっていたのでありましょうか。
ここでは、具体例を通してそれを見ていきたいと思います。



昭和29年3月、アメリカが太平洋のビキニ環礁で、水爆実験を行います


その時、近くで操業していた日本の漁船が巻き込まれました。
第五福竜丸事件です。


船員23人は全員被曝し、そのうち一人が亡くなりました

この事件を受けて、翌年、広島で、原水爆禁止世界大会が開かれます




憲法9条を持つ日本人が、世界に平和を訴えていく一大契機となりました


この年、東京の砂川町で、米軍立川基地の拡張計画をきっかけに、大きな事件が起こりました


基地に土地を奪われようとしている農民たちと、土地を接収しようとする政府が対立
農民側には、社会党や労働組合、そして学生たちなどが加わり、機動隊と衝突を繰り返します。


足掛け14年に渡って繰り広げられた『砂川闘争』です。


砂川町の住民は、戦前戦中は、日本陸軍の飛行場のために、そして戦後は、進駐してきたアメリカの基地のために、
土地を10回近くも提供させられてきました



その多くは農地でした


今回、この拡張計画で、5万2千坪、およそ17万平方メートルが新たな対象とされ、農民たちはついに立ち上がったのです。


農民のリーダーのひとりだった宮岡政雄さんです。


宮岡さんは生前、政府に抵抗する理由を、娘の京子さんに語っていました。

福島(旧姓・宮岡)京子さん:
これでもかこれでもかっていう感じで、やっとこれで生活が立て直せると思うと、また接収が行われる。
もうこれ以上、生活の手段である土地を奪われたくない
というのが、まず第一にあったと思いますね。


やがて農民たちは、すでに基地に利用されていた自分たちの土地も、取り返したいと思うようになります。
基地の存在そのものに反対する気持ちが芽生えたのです。

宮岡政雄さんもまた、仲間の意見に同調し、行動を共にします。


福島京子さん:
この基地機能というのはやはり、また戦争へと向かうひとつの道具となっている、ということに対して、
即この基地を撤去していくこと、基地に反対していくことが、平和を守る闘いであるんだということに、結びついていったんだと思うんです。


闘争が始まってから2年後の昭和32年7月、政府は、農民から借りていた基地内の土地を、強制使用するため、測量を始めます



それを反対する農民たちのもとに、労働者や学生たちが応援に駆けつけます。



この時事件が起きました。
200人あまりの人たちが、柵を壊し、基地に数メートル踏み込んだのです。


そして23人が逮捕、7人が起訴されました。
容疑は、日米安全保障条約に基づいて制定された、刑事特別法違反。


理由無く、アメリカ軍の基地に立ち入った場合、処罰されることが定められています。

昭和34年3月、東京地方裁判所で判決が下されます。
『全員無罪』
その理由は、国の政策を揺るがす内容でした。


安保条約に基づいて駐留する在日米軍は『違憲』
憲法9条の二項が禁じる、『戦力』に該当すると断じたのです。

当時、学生として砂川闘争に参加していた島田清作さんは、判決の衝撃を今も鮮明に覚えています。


島田清作さん:


憲法9条とか、憲法前文に書いてある平和の精神、それと、自分らがやってる戦争反対とか基地反対とかっていう運動が一体のものであり、
自分らのやってることが、憲法を守る運動でもあるんだっていうことを、まあ、改めて理解した



その年の12月、最高裁判所で、この判決は破棄されます
在日米軍は、9条二項が禁じる『戦力』にはあたらず、違憲とはいえないという理由からでした。


また、安保条約は政治の問題だとして、違憲か否かの判断は回避されました


しかし、東京地裁の判決以降、在日米軍や自衛隊の存在を憲法違反に問う訴訟が、各地で頻繁に起こされるようになります


こうした中で、憲法9条の理念が、国民に浸透していくことになったのです。

それは、池田内閣が、改憲・護憲論争に終止符を打つ、9ヶ月前のことでした。




スタジオ
松平アナウンサー:
まずこの砂川事件、砂川闘争の意義付けでございますね、それを古関さんはどういうふうにお捉えになりますか?

古関氏:
日本国憲法になって、9条との関係で、反対ということが言えるようになった、主張できるようになった
そればかりではなく、東京地裁で「違憲だ」という判決が出たわけですから、
それはやはり農民にとってみますと、9条というものがただ理想であるだけではなくて、現実に自分たちの農地とか、自分たちの生活権というものを守ってくれる
極めて現実的な権利規範というような形で、現れてきたんではないかと思います。



松平アナウンサー:
坂元さん、この反基地闘争の高まり、これは日米両国政府にどういう影響を与えたということなんでしょうか?


坂元氏:
日本政府もアメリカ政府も、こういう反基地運動というものを、サイグ?共産主義陣営が扇動し、それを利用し、保守政治の安定を揺さぶる危険な動きとみていました
アメリカ政府は、日本に中立主義的な傾向が強まったらどうしよう、こういう危惧が芽生えてくるんですね。


日本は、アメリカの冷戦政策にとって、非常に重要な基地を提供すると。
その日本の価値が失われるんじゃないかと。


そして実はこの反基地運動が、両政府に、安保改定の必要を強く意識されることになるんですね。



松平アナウンサー:
反基地、反戦闘争の高まりとともに、憲法9条をめぐる改憲・護憲の論争というのは、さらに加熱さを増すわけでありますが、
そうした中で、やがて国民の多くを巻き込んだ、戦後最大の闘争にそれは発展していくわけであります。


そしてみなさん、いよいよ『今日のその時』でございます。

つづく
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もう戦争はいやだ

2015年09月11日 | 日本とわたし
今から10年前に、NHKで放送された『その時歴史が動いた“憲法施行60年特集”』を観ました。
そして、10年経った今、わたしたちが闘っているものについて、理解が深まったような気がします。
文字起こしは得意ではないし、dailymotionの動画はここにアップロードできないので写真をコマ撮りしなければならないし、
などと言い訳して、ズルズルと先延ばしをしていましたが、日本で、いろんな町や村で、そして自宅や職場で頑張ってくださっている皆さんの姿に励まされ、よぉっし!と始めました。
文字制限があるので、何部かに分けて紹介させていただきます。

『その時歴史が動いた』

憲法九条 平和への闘争
~1950年代 改憲・護憲論~

【NHK 2007年5月2日放送】

昭和20年、大きな犠牲を残して、戦争は終りました。
終戦から2年後の昭和22年5月3日、日本はひとつの宣言をします。


― 日本国憲法 第9条です ―

戦争の放棄、戦力の不保持。
その平和主義は、世界でも類を見ない徹底したもの
でした。
しかし、その理念は、施行後すぐに揺らぎはじめます。
朝鮮戦争の勃発、東西冷戦の激化に伴い、アメリカは、一切の軍備を捨てた日本に、再軍備を求めます


時の総理大臣・吉田茂は、日本の独立を果たすため、要求を受け入れます


保安隊、さらに自衛隊の創設。


軍備の増強が進められました

しかし、9条との矛盾の深まりは、2つの政治勢力の対立を生み出します。


一方は、9条の改正を目指す「改憲」勢力です。憲法で、軍備を明確に認める。


憲法で、軍備を明確に認める。


もう一方は、9条を守ろうとする「護憲」勢力です。


平和憲法を守り抜く。



そんな中、改憲を目指す、岸信介(きしのぶすけ)を首班とする内閣が成立


岸は、改憲への布石として、日米安全保障条約の改定による、防衛力強化を目指します


しかしその頃、核実験や、米軍駐留に反対する、反戦運動が拡がります




国民の間に、憲法9条の理念が、定着しつつありました


岸が進める安保改定は、国民の戦争への不安に火をつけます


国会はデモ隊に包まれ、全国で数千万の市民が声をあげるのです。





もう戦争はいやだ


特集・その時歴史が動いた。


今日は憲法9条をめぐり、「改憲」「護憲」論争が火花を散らせた、激動の時代を見つめます。



松平アナウンサー:
こんばんは、みなさん、松平です。
明日は憲法記念日です。
それも、施行60年という節目の年の憲法記念日。
その前夜にお届けする、『その時歴史が動いた』。
今夜は憲法がテーマです。
それも、あの憲法9条ですね、ここにございますけれども、


第1項で、国権の発動たる戦争、武力の行使を、永久に放棄する


第2項で、陸海空軍その他の戦力を保持しない。国の交戦権は、これを認めないという、


あの憲法第9条を正面に据えて、これから時間も拡大して1時間、お伝えしていこうというふうに思っております。

この番組では、この憲法60年の歴史の中で、ある一時期にスポットを当てます。
13年という、ある一時期ですね。
何の13年かといいますと、憲法が施行された昭和22年1947年から、いわゆる60年安保闘争があった昭和35年までの13年間、
この13年の間に、日本を二分する論争が生まれた

従って、その13年を見ることは、憲法9条の意義・課題を考える上で、極めてヒントになるだろうというふうに思うからでございます。


で、この国を二分した論争といいますのは、
ひとつは、軍備をきちんと憲法に明記して、そのためには憲法9条を改正すべきだという改憲論


もうひとつは、あれは平和憲法なんだから、どうしても守らなければいけないんだという護憲論、でございます。


この改憲・護憲の憲法論争こそ、この今なお燃え盛り続いている憲法9条問題の、まさに原点だというふうに考えられるからでございます。

さあ、『今日のその時』は、昭和35年(1960年)の9月7日といたしました。
この日は、誕生間もない池田内閣が、新しい政策を発表した。
その時に、池田(当時の)総理が、「憲法改正はいま考えていない」と公言した、その日その時でございます。


どのような経緯でこの発言が行われたのか、その背景を探ること、そしてこの発言が、その後の事態にどういう意味を持つことになるのか、ということをこれから見てまいりますけれども、
まずは、この憲法9条が、戦後初めて成立した、そのあたりから今日は番組を起こしていきたいと考えます。



「本日、日本国憲法を交付せしめた」


昭和21年11月3日、戦後日本の新たな枠組みを示す法典が交付されました
日本国憲法です。


その内容は、それまでの国の在り方を大きく変換させるものでした。

象徴天皇制、国民主権、そして、戦争放棄を定めた第9条です。


その徹底した平和主義は、当時世界でも類を見ない理想をうたったものでした。
しかし、9条が生まれたのは、先の戦争に対する反省だけではありませんでした。

戦争放棄を新憲法の条文にするよう指示したのは、日本を占領していたGHQの最高司令官、ダグラス・マッカーサーです。


当時日本は、戦時中に被害を与えた国々から、戦争責任を厳しく追及されていました。


その矛先は、日本軍の最高責任者、天皇に向けられます。


しかしマッカーサーは、占領政策を混乱なく遂行する上で、天皇の存在を必要としていました。


「天皇を起訴すれば、日本人の間に激しい動揺を起こすだろう」(マッカーサーの書簡より)


マッカーサーは、海外の天皇訴追要求をかわすため、新憲法で『戦争放棄』、そして『戦力の不保持』まで明確に示そうとしたのです。


時の総理大臣、吉田茂の言葉です。
「敗戦の今日においては、如何にして国家を救い、如何にして皇室の安泰を図るか」(貴族院答弁より)


日本政府は、天皇制を存続させるために、戦争放棄を受け入れたのです。

国会では、新憲法案が審議され、吉田は、戦争放棄の内容について問われます。
吉田は、この条文が、『自衛権』、つまり「自国を守るための戦争さえも放棄するものだ」と明言しました

昭和21年10月7日、新憲法案は圧倒的多数で可決


ここに、憲法9条は誕生したのです。


新しい憲法を国民に普及させるため、解説書が作られました。


『あたらしい憲法のはなし』は、学校の副読本として、また、『新しい憲法・明るい生活』は、地域や家庭に配られました。

「我々はもう戦争をしない」
「まったくはだか身となって平和を守る」


しかし、平和を守るとはいかなることか、深く議論されることなく定められた9条は、世界情勢の変化の中で、いきなり試練に晒されます




新憲法が施行された昭和22年、世界では、ソ連率いる共産主義陣営と、アメリカを中心とする自由主義陣営の争いが始まります。


東西冷戦です。


昭和25年6月、朝鮮戦争が勃発。


アメリカは、国連軍として参戦しました。


冷戦の戦火は、ついに日本の対岸まで迫ったのです。


(昭和25年)10月6日、日本の海上保安庁の掃海艇20隻が、朝鮮半島に向けて密かに出航します。


目的は、北朝鮮軍によって敷設された機雷の除去。


北朝鮮の元山に上陸作戦を計画していた、アメリカ軍からの要請に応じた派遣でした。


要請を受けたのは、海上保安庁長官・大久保武雄です。


大久保はすぐに、吉田の判断を仰ぎます。
その時の吉田の反応を、大久保さんは生前、次のように語っています。


戦争の行われております前線に出動するんですからね、しかも国内的にもかなり、いろんな深刻な影響を与えて騒然となってもいけないという、まあいう、おもんばかりだと思いますけれども、
『これ大久保君、極秘だよ、極秘でやってくれ』と…」





吉田が極秘に進めようとしたのは、このことが、戦争の放棄を掲げる憲法9条に抵触する可能性があったからです。

しかし、派遣された掃海艇の壁が機雷に触れて、爆発する事故が起こります
乗組員のひとり、中谷坂太郎さんは、この時21才の若さで命を落としました。


数日後、中谷さんの実家に、アメリカ軍の将校と海上保安庁の職員が訪ねてきました。
兄の藤一さんは、その話を聞いて驚きました。

「出来ることならですね、瀬戸内海の掃海作業中に機雷に触雷して、お宅の息子さんが殉職したと、こういうことにしてもらえないだろうかと」


「もう口外してはまかりならんぞと、そういう半強制的な箝口令が敷かれたわけですね」



なぜ吉田は、こうまでして、9条抵触の恐れのあるアメリカの要請を受け入れたのか。


実はその頃吉田は、日本の独立に向けた講和交渉を控えていました。
その鍵を握るのはアメリカ。

要請を拒めば有利な講和条件を得られないと、考えたからです。


しかし、アメリカとの講和交渉が始まると、吉田は愕然とします。
全権大使のダレスは、講和の条件として、日本に再軍備を求めてきたのです。


冷戦が進む中で、アメリカは日本を、アジアの共産勢力の拡大を防ぐ、反共の砦と位置付けました


そのため、憲法9条により、戦力を放棄されたこれまでの対日政策を、180度転換したのです。

しかし吉田は、これを拒否します。
再軍備となれば、掃海艇の場合とは異なり、国民に隠し通せないからでした。
交渉は行き詰まり、遠のく日本の独立。
吉田は苦渋の末に、ダレスに伝えます。

「総数5万人にのぼる、陸・海の保安部隊を創設する」


かつて、自衛権さえも放棄すると明言した吉田は、アメリカに従い、ついに再軍備を決断したのです。


昭和26年、1951年9月、サンフランシスコで講和条約が結ばれ、日本は独立を果たします


この時、日米二国間で、日本の再軍備と米軍の駐留を約束した、日米安全保証条約も結ばれました


アメリカとの約束を履行すべく、吉田は昭和27年、11万人からなる保安隊の組織


そして2年後の昭和29年には、陸海空の、近代的軍備を備えた自衛隊を発足させます。



軍備増強のたびに、国会で激しく追求される吉田。
内閣として、次のように答弁します。
「保安隊については、警察上の組織」


「自衛隊については、戦力に至らしめない軍隊」


戦力の不保持をうたった憲法9条2項と、軍備増強の整合性をつけるため、吉田は苦しい解釈を重ねていくのです。

それは、池田内閣が、改憲・護憲論争に終止符を打つ、6年前のことでした。




スタジオ
松平アナウンサー:
今日はこのスタジオに、おふたりのゲストをお招きしております。
まず、憲法史がご専門の獨協大学教授の古関彰一さんでいらっしゃいます。どうぞよろしくお願いいたします。


もうひと方、外交史がご専門の、大阪大教授の坂元一哉さんでいらっしゃいます。どうぞよろしくお願いいたします。


まず古関さん、マッカーサー、あるいは吉田茂、この二人の意図とは、どんなところにあったのですか。

古関氏:
海外では、昭和天皇の戦争責任の追求というのは、かなり厳しく論ぜられていたわけですね。
そういった中でマッカーサーは、昭和天皇の戦争責任をできるだけ無くすためには、再び日本が他国の脅威にならない、憲法9条ですけれども、
そういうことをはっきりとした形で打ち出す、それが必要だというふうに考えます。
とにかく天皇制を残すということができたわけで、日本の政府の考え方と一致した。
そういう背景でできましたから、(憲法9条を作るにあたり)戦争に対する深い反省とか、あるいは平和への決意というものを十分持ったうえで作ってこなかったといいましょうか、不十分であったというふうに私はみております。


松平アナウンサー:
坂元さん、その世の中は東西冷戦時代に入っていくと。
この中で日米両国、とりわけ日本政府・吉田茂は、この憲法9条とどう整合性を持たせたか、どういうふうに考えていらっしゃいますか。

坂元氏:
吉田は憲法改正の必要を認めません
改正ではなくて解釈でと。
つまり「軍事はもうこりごり」という国民の世論、あるいは対外に軍国主義復活を警戒する声があると。
それに、経済復興を優先しておりました。 
それに配慮した結果でした。
「憲法9条は自衛権を否定していない」という解釈で、そのもとで自衛隊を作るわけです。


しかしそれは、憲法9条は自衛権も否定しているんだという、過去の自分の国会答弁とは矛盾するわけですね。
ただこの吉田は、国会答弁の中で、「自衛権というようなものは、国連のような国際的な平和団体がうまく動くようになればいらないんだ」ということも言っているんですね。
しかし実際には、国連は期待通りには動かなかったわけです。


松平アナウンサー:
憲法9条のもとで再軍備を進める吉田に対して、国民から批判が寄せられる
そしてそれは、憲法施行後6年後、政治の舞台に、新たな動きを生み出すことになるのであります。


この続きはまた後日。
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「国民の命を守るために一刻の猶予もない」と言う首相が、災害対策会議に使った時間はたったの10分?!

2015年09月10日 | 日本とわたし
集中豪雨で甚大な被害が出ている真っ最中に、

記録的洪水が起きているのに…。
安倍首相が災害対策ほったらかしで外務省、自衛隊幹部と安保法制答弁の “口裏合わせ”

【LITERA】2015年9月10日



北関東への記録的な大雨だが、いまも茨城県では、鬼怒川の堤防決壊によって濁流にのまれ家屋に取り残された人びとや、土砂崩れに巻き込まれた人びとの救助活動が行われている。
17時30分現在、被害は6900世帯にのぼり、550人もの人びとが孤立状態にあるという。
 
今後、被害はさらに拡大すると思われるが、安倍晋三首相は午前10時39分に、報道各社からのインタビューで、
「今後も経験したことのない大雨が降り続く恐れがある。災害応急対策に万全を期していく」と述べたものの、
その後、災害対策に自ら乗り出すことはなかった
 
事実、インタビュー後は、長嶺安政外務審議官、江島潔自民党参院議員、山口那津男公明党代表と立て続けに会っているが、
会談目的は災害対策ではなく、安保法制の参議院採決に向けた準備であることは明白
さらに、午後1時36分から2時17分までは、内正太郎国家安全保障局長、北村滋内閣情報官、平松賢司外務省総合外交政策局長、防衛省の黒江哲郎防衛政策局長、河野克俊統合幕僚長と会談している。
この面子を見てピンとくる人も多いと思うが、これは先日、国会で明らかになった防衛省の内部資料、
すなわち、昨年末の、河野統幕長による安保法制成立を前提とした、米軍幹部との会談の件について話し合っていたのだろう。
 
いままさに起こっている災害の対策に尽力もせず、安保法制採決のために内部資料の言い訳を考える……。
しかも、災害救助にあたる自衛隊トップの統幕長も一緒に。
これだけでも国民の安全を軽視していると思わざるを得ないが、
そもそも、深夜1時に開かれた会見の段階で、気象庁は、
栃木県では、これまでに経験したことのないような大雨が降っています。重大な危険が差し迫った異常事態と言っていい状況です」と強い言葉で説明。
さらに、
土砂崩れや浸水による重大な災害が、すでに起こっていてもおかしくない」としていた。
そして、最大限の警戒を呼びかける「特別警報」が、深夜0時台に栃木県、朝7時台に茨城県に発表されている。
 
昨晩から甚大な災害が予想され、すでに被害が出ている
そんな状況下にもかかわらず、安倍首相は午後3時49分になって、やっと大雨に関する関係閣僚会議を開いた
そして、「国民の命を守るために一刻の猶予もない」などと述べたのだ。
一刻の猶予もないと知っていながら、その間、安保法制の口裏あわせをしていたのに、である。
 
この発言、厚顔にもほどがあるが、いまはそれこそ一刻も早く、本気で対策を講じてほしい。
それが総理大臣の仕事だ。
(編集部)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150910-00000025-jij-pol

首相動静(9月10日)
【時事通信】

午前8時
公邸。朝の来客なし。

午前8時6分~同16分
西村泰彦内閣危機管理監。

午前9時40分
公邸発。
 
午前9時47分
東京・虎ノ門の日本消防会館着。
同会館内のニッショーホールで全国消防殉職者慰霊祭に出席し、あいさつ、献花。
同10時32分
同所発。
 
午前10時38分、官邸着。
同39分~同40分
報道各社のインタビュー。
「大雨の対応状況は」に「今後も経験したことのない大雨が降り続く恐れがある。災害応急対策に万全を期していく」。
 
午前10時44分~同59分
長嶺安政外務審議官。和泉洋人首相補佐官同席。
 
午前11時48分~午後0時19分
江島潔自民党参院議員。
 
午後0時29分~同1時30分
山口那津男公明党代表。
 
午後1時36分~同2時17分
谷内正太郎国家安全保障局長、北村滋内閣情報官、平松賢司外務省総合外交政策局長、防衛省の黒江哲郎防衛政策局長、河野克俊統合幕僚長。
 
午後2時58分~同3時4分
木村太郎首相補佐官。林肇外務省欧州局長同席。
 
午後3時5分~同48分
茂木敏充自民党選対委員長。

同49分~同59分
栃木、茨城両県などの大雨に関する関係閣僚会議。

 
午後4時5分~同31分
甘利明経済財政担当相、内閣府の松山健士事務次官、前川守、羽深成樹、田和宏各政策統括官。
 
午後4時37分、麻生太郎副総理兼財務相、財務省の田中一穂事務次官、佐藤慎一主税局長が入った。
同5時25分、田中、佐藤両氏が出た。
同33分、麻生氏が出た。
 
午後6時9分
ウガンダのムセベニ大統領を出迎え。記念撮影。

同10分~同15分
儀仗隊による儀礼。

午後6時17分~同7時2分
ムセベニ大統領と首脳会談。

同7分~同24分
署名式。共同記者発表。

同25分、官邸発。

同26分、公邸着。
首相夫妻主催の夕食会に出席。

(了)

栃木、茨城両県などの大雨に関する会議に使った時間は、昼の3時49分から59分のたった10分だけ。
その他はずっと、夕方の5時半まで、違憲法案の強行採決の実現に向けての画策を練り、ウガンダの大統領との撮影やら署名やら共同記者会見をして、首相夫妻主催の夕食会まで行った。

国がどれほど、国民の命というものを蔑ろにするか、し続けてきたか。
それを今、安倍という首相の座に居座っている男が、見事に体現してくれている。

国会というまさに議員の仕事場で、まともな答弁が全くできないという無様な姿をさらけ出し、野次を投げかけ、話をはぐらかす。
その悲惨としか言いようのない今期の国会の経過を、ともたさんが、忙しい毎日の中、徹夜をしてまでまとめてくださった。

その渾身のまとめです。

↓以下、紹介します。

【共産またも「爆弾」投下!】
法案成立、さる12月に、統幕長が米軍に「報告」か?
民主追及:
民間人殺傷したら現場は有罪・司令官は無罪?
ホルムズ海峡封鎖はやはり架空だった!
憲法18条は徴兵制の歯止めにならず!
生活・山本「中3生にも戸別訪問」の自衛隊リクルートの実態に迫る!
20150902参院安保特別委

http://togetter.com/li/868883

【防衛相、絶賛崩壊中】
統幕長発言、内容糺さず!
ミサイル防護は、客船より米艦船を優先の本末転倒!
2つあったS47見解の矛盾に、「安倍顧問弁護士」が強弁!
国民の税金で、統幕長が「勝手にお買い物」、割を食うのは非正規自衛隊員!?
あの議員まで「NSCの役人出て来い!」と吠え出したっ!
20150904参院安保特別委

http://togetter.com/li/869694
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「安全の根拠を示さず、避難住民の自己決定権を尊重しない。 史上最大の事故には史上最大の救済が必要」

2015年09月10日 | 日本とわたし
東京電力福島第一原発の過酷事故が起こってから、4年と半年が過ぎました。
そして今やっと、『福島被ばく訴訟』が始まりました。
この裁判は、井戸川克隆前双葉町町長が原告となり、東京電力と国が、住民を、放射線に被ばくさせた責任を正面から問う裁判です。
タイトルの言葉は、裁判での井戸川氏の陳述より引用しました。
この裁判が、事故に至った原因、原子力ムラの体質、責任転嫁の実態などを公に提示し、しっかりとした検証が行われることへのきっかけになってほしいです。

井戸川さんの言葉:
「絶対安全」と言われていた原子力発電所。
その原子力発電所は,私たちのふるさとを奪う存在になりました。
3月12日,私たちは、原子力発電所から出た「死の灰」を浴びました。
今も、私たちの故郷は「汚染」されたままです。 
安全なふるさとを奪った国・東電を許さない!許せない!



週刊MDS新聞より

「福島被ばく訴訟」始まる 
原告の井戸川克隆さん(前双葉町長)陳述

http://www.mdsweb.jp/doc/1393/1393_45i.html



福島原発事故当時の地元の首長が、国と東京電力を訴えた「福島被ばく訴訟」が8月21日、東京地裁で始まった。
傍聴抽選に100人を超える市民が列をなし、法廷はいっぱいになった。


「憤りが収まらない」

原告の前双葉町長・井戸川克隆さんが意見陳述。
「私は今回の事故により、計り知れない被害を受け、数えきれないほど多くのものを失った。
事故直後に大量の被曝をし、今日まで健康被害の恐怖やがんの不安におびえ続けている」

悔しさをにじませながら、語り始める。

「事故前、国や東電は核の『平和利用』をうたい、『原発は絶対安全』を繰り返し、何があっても『止める、閉じ込める、冷やす』と言い続けていた」

「事故の翌朝以降、町民は川俣町への避難を開始。
私は、取り残されていた病院患者や施設入所者の避難誘導にあたっていたとき、1号機から〝ドン〟という大きな音が響き、
5分後、空からぼたん雪のような放射性降下物が落ちてきた。
3月11日16時45分に、東電が政府に通報した時点で適切な避難指示が出ていれば、惨事を回避できたと思うと、憤りが収まらない」

と、原子力政策のウソと、事故対応の遅れの責任を追及。

「テレビ会見は『直ちに影響がない』と、事態の深刻さを伝えない。
『なんだこの国は。われわれを見捨てる気か』と強い不信感を持った」


「放射能は心の問題と発言した副大臣がいた。
避難も強いられず、被曝の恐怖にもさらされていない者が、そう決めつけることに怒りを覚える。
被害ではないと決めつける方には、私たちと同じ放射能を被(かぶ)ってみていただきたい」
「今や、放射線に汚染された土地に無理に帰還させようとして、20mSvで安全だという。
安全の根拠を示さず、避難住民の自己決定権を尊重しない。
史上最大の事故には、史上最大の救済が必要だ。
国に期待できない以上、司法によって正義の実現を」


陳述を終えると、裁判長の制止の声を圧する大きな拍手が響き渡った。


裁判を支える会結成へ

弁護団は、宇都宮健児弁護士を団長に、福島原発被害東京訴訟やさいたま訴訟などを担う、弁護士12人で構成されている。
裁判後の報告集会で、松浦麻里沙弁護士は、
「避難指示の遅れ、政府の過失で無用な被曝を受けたこと、初期被曝がもたらす健康被害への恐怖・精神的苦痛を正面から取り上げ、責任を問う裁判だ」と意義づけた。

集会には、南相馬・20mSv基準撤回訴訟や、東京訴訟、かながわ訴訟、東電株主代表訴訟の原告らも参加。
「当該の行政の長が訴える裁判は画期的」
「低線量被曝の健康被害を問題にしていく、意義ある裁判だ」
「ひだんれん(原発事故被害者団体連絡会)に入って大きな運動にしよう」
など、活発な意見が出された。

井戸川さんは、
「こんなに集まっていただいてありがとう」と涙を拭い、
「この裁判で、区域外区域内など関係なく、みなさんが被害者だという意識を高めたい。
健康手帳の交付、健康診断など、被曝の影響をあいまいにしない制度要求につなげたい」
と述べた。

次回以降の期日は11月19日、2月4日、4月20日(いずれも午前10時から103号法廷)。
また、裁判を支える会の結成に向け、9月6日に打ち合わせ会がもたれる(午後4時から埼玉総合法律事務所=浦和駅下車=)。

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いろいろいきものがたり

2015年09月08日 | ひとりごと
今から6年前のこと。
インターネットの売り家サイトで、毎日100件ほどの(これは誇張ではございませぬ)家を検索しては、気になる所を翌日の午前中に見に行くという、
なんとも気の遠くなるようなことをコツコツと続けていた。
何軒か、ほとんど買いそうになった家もある。
でも、どうしてもピアノを教える環境とは思えなかったり、土の中に埋められたオイルタンクに穴が空いていてものすごい汚染が生じているのを見つけたり、
それでまた一から出直し…そんな毎日が1年近く続いていて、さすがのわたしももう限界かもしれないと思った頃に、

この階段、いいなあ…という家が目に入った。

ただそれだけで、とりあえずその家の住所を調べ、翌日にこっそり、わたしひとりで見に行った。
その時は4月で、その家のお向かえでは、小ぶりだけれど、それはそれはのびのびと枝を張った桜の木が、見事な満開を迎えていた。
もちろん家の中には入れなかったけれども、その家のすぐ横の、多分その家のものらしき庭には、カエデの巨大な老木が天に向かって静かにそびえ立っていた。
わたしはその桜とカエデの木に一目惚れして、よし、この家に住もうと心に決めた。

無念なことに、家は横の庭と別々に売られていて、わたしたちの甲斐性ではどうしても買うことができなかった。
その隣の土地は、ある不動産業を営む男性が手に入れて、『空き地売ります』の看板が立てられた。
わたしはひたすら、誰にも売れるな~誰も買うな~と祈るしかなかった。
毎日外に出ては、カエデの爺さんのゴツゴツした肌を撫で、爺さんが切り倒されないように頑張るからねと話しかけた。
でもわたしがいくら頑張っても、その日が来たらそれまでだということを、カエデの爺さんはとっくの昔からお見通しだと分かってもいた。

業者が草刈りに来るのを見てはドキリとし、見知らぬ人たちが土地の中を歩き回るのを見てはとうとうか…とやるせない気持ちになり、
そんなふうに気を揉みながら見守るという毎日が、気がつくともう6年も経っていた。
看板はどんどん薄汚くなり、台風や嵐が通り過ぎるたびに、通りからは見えない所に吹き飛ばされていたり倒れていたりした。
それをもちろんわたしは喜んで、このまま気がつかずにいればいいのに、などと願ったりした。
この夏、突如その看板が撤去され、新たな、とてもオフィシャルな、見栄えの良い看板が立てられた。
イヤな予感がした。

実はこの土地は、美しい庭として、ご近所さんにとっても気になる場所だった。
前に一度、皆と一緒に町議会に通った時に、カエデ爺さんに寄せるわたしの熱い思いを知ったケリーが、特に気をつけてくれるようになった。
その彼女が発起人となり、町の役人を巻き込んだミーティングが、夏のはじめに開かれた。

もうこうなったら土地を町に買ってもらい、公共の広場として使えるようにできないか、というのがミーティングのテーマだった。
そのミーティングでは、一番の当事者としての(土地を挟んだ家に住む)わたしたちとエステラ&ロバート夫妻の意見が、最も尊重されることになった。
わたしと夫は、その土地が公共の広場になることに反対ではなかったが、エステラは絶対にそれはイヤだと明言した。
そのテーブルでの反対はエステラひとりだったけれども、だからこそ尊重しなければならないと、皆がそう思いながら散会となった。
正直言うと、わたしはとてもがっかりした。
彼女さえ賛成してくれたら…と思いながら、カエデの爺さんにその日の報告をしに行った。
カエデの爺さんは、もちろん何も言わなかったけれども、「なるようになる、それでいい」と、木肌にくっつけた耳に聞こえたような気がした。

そして…。

今、わたしたち2軒の夫婦は、なんとその土地のオーナーとして、次々に差し出される書類にサインをしている。
それぞれの思い、考え、願いを話し合っているうちに、じゃあ一緒に買おうか、ということになったのだ。
それはもう、なんともいえない、月並みな言葉になってしまうけれども、運命としかいえない流れだった。
ここに骨を埋めると(多分法律では許されないのだろうけれども)決めたわたしとエステラというふたりの女が、隣同士で暮らし始めたという運命。
決めてから値段の交渉が始まった。
わたしたちの希望価格はあっという間に却下され、それからはジリジリと、互いの様子を伺いながらの交渉だった。
最後に手を打った価格は、わたしと夫がこれ以上は出さないと決めた金額を2倍しても届かず、ああこれでおしまいかと観念しかけた時、
「足りない分を余分に出してもいいよ」と、エステラとロバートが言ってくれた。
わたしは、カエデの爺さんが生き長らえることさえできたらそれでいいので、土地がちょうど半分得られなくても全然かまわなかった。
もうだから、ありがたくて嬉しくて、エステラにガバリと抱きついてお礼を言った。

ということで、今後は一切、カエデ爺さんの命を心配することはなくなった。
エステラは早速、木のお医者さんに連絡して、爺さんの健康状態を調べてもらおうと言ってきた。
土地だけなのだからと油断していたら、地質検査、手続き料、弁護士料などなど、あれよあれよという間に費用が嵩んでいく。
夏のこの時期のこの出費はめちゃくちゃ痛い。
だけど同時に、働き甲斐が出てきたという感がして、しんどいけれども清々しい。
半分こにするけれど、境界なんて気にしないで、一緒に庭を造っていこうね。
エステラとわたしは、数年後の庭を目に浮かべながら、ウキウキと話を弾ませる。
いろんなガッカリが続いた今年の夏の嬉しいこと。


でも、現実はなかなかに厳しい。
例の台所の天井に空けた穴は、いまだにこの通り、しっかり空いたままである。


空いているだけではなくて、なんの前置きもなく、埃やチリや、時には当たるとけっこう痛いコンクリートの塊が落ちてくる。

さらに、
壁の反対側にあるピアノ部屋の天井にも、夫が穴を空けると言いだしたので、わたしは慌てて物を退けた。


その面倒なことったら。
黒い棚にぎっしり詰まっている大量のピアノの本や細かな飾り物を、まずはピアノの上に移動させ、


その上にカバーをかけて、細かくて白い埃から守ろうとした。


カバーをかける前の一瞬に、もうこの方が…。


追い出すと今度はこっちに。


そんなことをする勇気が無いこの方は、


と思いきや、いきなりピアノの上から襲い掛かかられてしまった。


エイ!ボカスカ!


ちょっと君、いい加減にしたまえ。


にゃにおぉ~、ちょっと年上やからって偉そうに!


あ、すんません、聞かんかったことにしといてんか。


と、喧嘩もするけど、すぐに仲直り。


ふたりしてこの方にからかわれている。(ほぼ毎日)



話が横道にそれた。
夏のレッスンが少ない間に、なんとか終えてしまいたかった水道管のやり直し工事。
何人かの配管工に見積もりに来てもらう。
来ると一応調子良く、「⚪︎⚪︎に来るように言っとくよ」とか、「工事の予定は明後日と明々後日の二日にしよう」とか言って帰って行くのだけれども、
その後はそれっきり何の連絡も無く、誰も来ないし工事も始まらない。
そのことに呆れてわたしが文句を言うと、夫は決まって、「夏はこんなもんだ」とか「彼らだってこの時期に無理はしたくないだろう」などと言う。
いや、それならばそれでいいから、守れもしない約束や、工事の予定を言わないで欲しい。
こっちだって、必要でもないのに片付けたり、埃除けのためのテープを貼ったりなんかしたくない。
というわけで、ふた部屋の天井に穴が空き、埃や塊が静かに、時にはゴトンと落ちてくる毎日が、もう1週間も続いている。
そして、二階の新しい(はずの)浴室は、全く使えないままである。


うちの今年の一番さんは桃。

梅よりちょびっと大きいぐらいのチビ桃さんだけど、木で熟しているのでとても甘い。
来年はちゃんと勉強して、ちゃんと世話するね。

そしてこの方々。なぜかみんな同じサイズ。


今年は畑を真面目に世話しなかった。なのにスイカさんがメキメキとおっきくなっている。ありがたやありがたや。


なんだなんだ?


海ちゃんが仰向けで、バンザイして寝ていた…。





夏がかけ足で去っていこうとしている証拠に、夜が早くやって来る。
ちょっと前はまだ、昼間みたいに明るかった8時過ぎが、もうこんなに真っ暗。
そんな真っ暗な裏庭の片隅で、まなっちゃんが何やら始め出した。


花のある暮らし。FLOWER for EVERYTHINGというサイトを立ち上げた彼女。
また何かアイディアが浮かんだのかな?


ものすごく頑張っているのに、今だプー太郎続行中の次男くん。


この夏は誰よりも、君が一番ストレスフルだった。
でもメゲずに、平常心を保てているのは見事だと思う。
トーナメントにも勝った。
そろそろ出てくるよ、これまでのことがつながった良い結果が。
そう信じて焦らずに、けれども疲れたら休憩して、クサクサしてきたら息抜きもして、自分が納得できる、好きになれる仕事を見つけてね。
コメント (4)
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